僕が施設のリーダーになってから、一年くらいが経った頃だと思う。郷原が施設に入ってきた。
それまで色んな人たちを見てきた。施設にいる子たちはみんな、なにかしら苦労をしてきたのを知っていた。だから、自分が一番不幸だとは思わなかった。それでも、郷原の人生の壮絶さには脅かされた。
その壮絶さの反動だろう。郷原は周りとうまく馴染めなかった。世界の全部が敵に見えるようだった。トラブルしか起こさない郷原に、近づこうとする人は誰もいなかった。
だがそれでは、困るのは郷原だ。味方がいないというのは、慣れていても辛いものだ。それを知っていたから、僕だけは郷原の味方であろうとした。そのうちに、郷原はあまりトラブルを起こさなくなった。
言動で誤解されがちだが、郷原は仲間思いのいいやつだ。それを理解した子も多くなって、郷原を慕う人もできた。僕は、生まれ持った性格のままで慕われる郷原が少し羨ましい。
僕が日比谷と付き合えないのには、もう一つ理由がある。
僕には、あの父親の血が流れている。あの母親の血が流れている。もし日比谷と付き合って、自分の中に両親を見たら。自分があいつらと同じ最低な奴になるのが怖い。自分があいつら同然になるのは耐えられない。だから、僕は誰とも付き合えない。一生独身でもいいと考えている。
僕の将来の夢は、政治家だ。親がいない人間でも政治家になれることを世に示し、身寄りのない人たちの希望となる。その未来のために僕は前進する。日比谷に囚われることはできないし、ましてこんな場所にいつまでもいる訳にはいかない。
日比谷は飽きることなく、しゃべり続けていた。日比谷に相槌を打ち続けながら、昔のことをぐだぐだと考える。気づけばかなり長い間歩いていたようだ。日比谷め、よく話が尽きないものだと思う。この点についても尊敬しておこう。
そして、ようやく違和感に気づいた。
かなり歩いたはずなのに、一向に扉が見えない。手で日比谷を制して一旦黙らせる。集中して見たい。不満げな日比谷だったが、僕の真剣な表情を見て態度を改めた。
目を凝らしても、扉は確認できない。そのまま見続けて、あることに気づいた。
「扉がない?」
それまで通りなら扉があるはずの場所が、ただの壁になっているように見える。とはいえ、なだかなり遠くにあるので、見間違いの可能性もある。
そこでさらに、どうやら通路が二手に分かれているらしいことに気づいた。壁の両脇が、新たな通路に繋がっているようだ。
「随分長いね、この通路」
日比谷の声に無言で頷く。もう次の部屋に着いていてもおかしくない。それくらいは歩いたはずだ。
「ねえ加賀くん」
「なに?」
「私たち、実はもう次の部屋に入ってたりしない?」
日比谷の言葉に、思わず足を止める。
「あ、えと、次の部屋っていうか、もう危険な場所にいるっていうか……」
僕が立ち止まったのをどう誤解したのか、言い訳をしてくる日比谷に、わかっていると頷く。
これまでずっと、部屋に入ってから襲われてきた。だから、今回もそうだと思っていた。しかし、この迷宮のことなんて誰も知りやしない。この通路で何かが起こっても不思議ではない。仮に何も起きないとしても、警戒するに越したことはないはずだ。日比谷に礼を言い、全体に呼びかける。
「みんな、気を引き締めて。もしかしたらすでに危険な状況にあるかもしれない」
そう言葉を発した途端、緊張感が高まったのを感じた。やはり皆迷宮に順応してきている。反応が早い。誰も油断なんてしていない。
それが確認できたので少し満足した。これなら、突然なにかが起きても多少は対応できる。
「あの……ひょっとしたらと思って言っただけだから、本気にしなくてもいいんだけど……」
日比谷の言葉にまた苛立ちを覚えてしまう。こんなものは、自分の発言に責任を持ちたくない奴の言い分だ。だけど日比谷のおかげで気づけたのも確か。
「警戒するにこしたことはないからね。言ってくれてありがとう」
そう言って、また歩き始めた。つくづく、僕は最低なお人よしだなと思う。上っ面だけの親切心だけで塗り固められた偽善者だ。自己嫌悪も相まって余計に苛立ちが募る。
――それからさらに時間が経った。しかし、特に変化はなかった。それならそれでいいんだ。危険な目に会わなくてすむならその方がいい。
張り詰めていた空気も、緩み始めていた。相も変わらず日比谷はぺらぺらと無駄話を続けている。いい加減相槌を打つのも疲れてきた。そろそろ黙らせようと思った、その時だった。
「うわっ!!!」
後ろで誰かが叫んだ。慌てて後ろを振り向く。湯島だ。腰を抜かして、怯えたように何かを見つめている。湯島の視線を辿るが、何も見つけられない。
そんな湯島の様子に怯えたように、辺りが騒がしくなり始める。まずい。パニックの前兆だ。
声をかけようとするが、また誰かが声を上げた。声の方を見ると、歩いてきた方へ逃げようとする芹の腕を慌てて掴む七瀬がいた。
そして、連鎖するようにありこちで悲鳴が上がった。みんな何かに怯えている。
「なにをそんなに怯えてるんだ?」
何が起きているのか全く分からない。だが、何かが起きているのは分かる。ゆえに怖い。
状況をよく確認するために周囲を見回そうと、横を見た。当然日比谷がいる。はずだった。
しかし、日比谷が立っているはずの場所にいたのは、僕の忌々しい母親だった。
「嘘だろ……」
声が漏れる。記憶の中と変わらない、鋭く吊り上がった目が僕をじっと見ていた。恐怖、不安、憎悪。子供の頃のどす黒い感情が蘇ってくる。思わず後ずさってしまう。
そんな僕に合わせるように、母が歩み寄ってきた。後退し続けるが、すぐに背中が壁に当たる。
なんでこいつがここにいるんだ?
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