七瀬の姿はすぐに暗闇に呑まれ、見えなくなった。私は少しの間、七瀬が落ちていった先を見ていた。でもそうしていたって何かが起きる訳でもない。出発しようと思い橋の先を見て、新界の様子を確認する。そして、はっとした。
新界が、私を見ていた。
七瀬を突き落としたところを、新界は見ていただろうか。途端に不安になる。大丈夫、七瀬の声が気になってこっちを向いただけだ。私が突き落としたのは見られてないはず。そう言い聞かせる。それでも、不安で鼓動が早くなるのを止められない。
歩き出そうとして、腕の痛みに気づいた。七瀬に引っかかれてできた傷が、みみずばれになっている。思わず舌打ちをする。傷を撫でながら、足を動かし始めた。七瀬なずき。最後まで鬱陶しい女だ。
私は体に傷を作るわけにはいかないんだ。常に綺麗でいなければ。私を待っている人たちがいるはずなのだから。
――昔。記憶があるかどうかもあやふやな頃。私の家族はすごく幸せだった。細かいことは覚えていない。でも、あの時の感情は覚えている。毎日が楽しくて、笑顔が絶えなかった。私の周りはいつも幸せに満ちていた。
けれど、幸せはそう長くは続かなかった。
私が小学生になる前、父が事故で亡くなった。それがきっかけとなって、家庭が壊れ始めた。母は夫を亡くした悲しみから立ち直って、一人で働きながら家事をして、私を育てることができるほど、強い人じゃなかった。そんな器用な人じゃなかった。
父が亡くなってすぐの頃、母はずっと泣いていた。事情を理解できていない私は、母が泣いているから泣いていた。間もなく、母がちょっと立ち直った。そして、一緒に頑張ろうねが口癖になった。作り笑いしかしなくなった。
けれどそのうち、母がストレスを隠せなくなった。よく怒るようになった。そして怒った後は、決まって泣くのだ。怒られたら謝ればいい。でもお母さんが泣いていたら私はどうしたらいいの? どうしてお母さんは謝りながら泣いているの? 私には、母が分からなくなった。
それでもどうにか、小学校には行かせてもらえた。行けたけど、小学校は全然楽しくなかった。遺産はあったし遺族年金もあったから、学校に行けないほど貧乏なわけじゃなかった。けれど、他の家庭に比べればかなり節約を強いられた。それに、小さな子供にとって片親は、同情ではなく好奇の対象だった。毎日、息が詰まりそうだった。
そして、ある冬の日。私は家を出た。
母が本音を漏らした日だった。その日、仕事から帰ってきた母は、いつも以上に苛立っていた。そういう時は、目立たないようになるべく静かにしていた。そうしていれば、大抵怒られずにすんだからだ。
でも、その日は違った。母は隠れていた私を見つけると、私をリビングへ引っ張ってきて、すごく些細なことで怒り始めた。確か、私が原因のことではなかったと思う。だからあれは、母がストレスを発散するための八つ当たりだ。でも、子供の私にはそれが分からない。泣き叫びながら、延々と謝り続けていた。
「お前なんか生まなきゃよかった」
ぽろりと、母の口からその言葉が漏れた。何気なく発せられた言葉だった。その言葉が聞こえた瞬間、私の中の何かが壊れた。唐突に、何も感じられなくなった。
多分母も、言ってからマズいと感じたんだと思う。慌てたように謝ってきた。私を一人にしないでと、泣きついてきた。でも、私には母が、うるさいだけの異星人に思えた。
だって、この人は私を必要としていない。私を、自分が生きることに利用しようとしか考えていない。私自身を見ていないもの。
これが真理。当時の私にとっての真実。だから私は、家を出た。私を必要とする人を求めて。
冬の寒さは、子供の私には厳しかった。がたがた震えながら、児童養護施設に行った。施設が家の近くにあったのは幸いだった。私が施設に着いた時、すっかり日は暮れていた。けど、施設の人はちゃんと対応して施設の中に入れてくれた。
それから、施設の人と母との間でどんなやり取りがあったのかは知らない。一か月くらい施設で保護された後、正式に入所した。実は母が自殺していたと聞かされたのは、随分大きくなってからだ。
そして私は、必要とされることに固執するようになった。
必要とされるためには、いい子でないとダメだった。まず、大人の手伝いばかりをした。できる子になろうとした。次に、周りの子と仲良くなろうとした。相手が聞いて心地いいことを探すようになった。そんなことばかりしてるうち、私も大きくなって、子供たちをまとめるようになった。大人に信頼されるようになった。
そんな風に成長して、いつしか私は、嘘がうまくなった。私を慕う相手を馬鹿にしながら、笑顔で接することができた。私はみんなに必要とされた。
でも、私はまだ、世界を知らなかった。忘れもしない、中学二年のあの日。私はテレビで、モデルを知った。
大勢に囲まれ、注目を集めながらストリートを歩く。その美貌を誰もが求める。モデルのその姿に、私は嫉妬した。その場所には私がいるべきだ。必要とされるべきなのは私だ。私は、モデルを目指すようになった。
幸運なことに、私は綺麗だ。端正な顔で、背も高い。鍛えているからぜい肉はないし、向上心なら誰よりもある。努力を惜しんだことはない。自他共に認めるこの容姿なら、きっとモデルになれる。誰もが私を見てくれるはずだ。
だから私は、こんなところにいつまでもいる訳にはいかない。こんな迷宮、すぐに出てやる。
――歩き続けて、橋ももう終わりに近づいていた。部屋の奥にある扉が、はっきりと見えるようになった。
その扉は、これまでとは明らかに違う空気を纏っていた。大きさは相変わらずだが、白を基調に、金色の装飾がされている。更に、扉の向こうから光が漏れてきていた。この扉を作るのに、一体どれだけの金がかかったのだろう。そんなくだらないことを思った。人が作ったのかどうかも分からないけど。
その扉の前に、新界が立っていた。相変わらず気だるそうな顔で、私を待っている。
こいつが最後まで生き残るなんて、誰が予想してただろう。加賀みたいな優れたやつでなく、こんな下らないやつが生き残る。世界の理不尽さが身に染みてわかるようだ。私はゆっくりと、扉に近づいて行った。
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