Slime mold号の揺れが収まった時,リーがチキに尋ねた.「今度はどこに来たの?」「今は1906年9月5日,イタリアのドゥイーノ郊外.ルートヴィッヒ・ボルツマンが双極性障害の為に自殺したところだ.セイジのプレプリントにはまだエネルギーが残っている.」それを聞いて,ゲンが口を開いた.「ボルツマンの原子仮説は分子の絶え間ない運動が温度や圧力と認識されている特性を生み,それにより気体が何故膨張するのか,どれだけ膨張するのかも理解出来るようになるなどの見解から来るものだった.素朴実在論のボルツマンはそれで唯名論のマッハと対立したけど,原子仮説はボルツマンの死後に受容されて行った.ボルツマンの学説の受容は,古い考えの年寄りがいなくなると,先進的な考えがアインシュタインなどの若者に満ちて広まるという過程に沿ったものだった.エネルギー,もしくは波と,粒子のどちらを優先させるかの論争は,後の20世紀に発展的解消をみた.」リーも続けた.「1868年にマクスウェルの分子エネルギーの分布則を発展させ,エネルギーが並行運動エネルギー以外のものであってもそれらの次元に等価に分配されることを若い時に提唱した.これがマクスウェル=ボルツマン分布f(ε) = e–β(ε–µ)で,高温で濃度の低い粒子系において1つのエネルギー準位にある粒子の数の分布を与えた.個々の分子は無秩序でも,集合的には秩序立つことも数学的に論証出来た.これが非古典的なボース=アインシュタイン分布f(ε) = 1/(eβ(ε–µ) – 1)とフェルミ=ディラック分布f(ε) = 1/(eβ(ε–µ) + 1)の提唱に後に繋がる.1872年にはボルツマンの輸送方程式∂f/∂t + v·∇f + dp/dt∇pf = –(f–f0)/τ(p)により温度勾配と電磁場の存在下で荷電粒子の分布関数の平均値からの偏倚を表現し,マクスウェル=ボルツマン分布が熱平衡であることを加味した.1872年には他にH定理 (d/dt)∫∫fln(f)dvdr ≤ 0を証明し,Hが最小になるのがマクスウェル=ボルツマン分布だとした.これは熱力学第二法則を破るマクスウェルの魔物という皮肉の提唱にも繋がった.そこで,Hはほとんどの場合減少するという見解になった.1877年のボルツマンの関係式ではS = klogWでエントロピーの新しい理解の仕方を示した.1884年には熱的平衡にある時の電磁放射が温度の四乗に比例するというシュテファン=ボルツマンの法則を理論的に説明した.」そう言いながら,リーはこれらがセイジのモデルの根底にある,個体と集団の性質の関わりになっていることを認識した.ボルツマンが夢見ていたように,生物の本質はここにも現れているように感じられた.何かが分かるかも知れない,そういう思いがリーの中に着々と根付いていた.チキが言った.「またクローンが集まって来た.後数回,我慢してくれ.」そういう言葉が発せられた後に,slime mold号は時空転移した.
参考文献:
Boltzmann L “LECTURES ON GAS THEORY” (DOVER)
D・リンドリー『ボルツマンの原子 理論物理学の夜明け』(青土社)
Cercignani C “Ludwig Boltzmann The Man Who Trusted Atoms” (OXFORD)
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