ガイア帝国の多国籍軍がハールィチ・ヴォルィーニ大公国に到着したとき、同国は既にタタールのくびきから解放されていた。
多国籍軍の将軍たちは啞然としながらガーリチの地にいったん集結した。
将軍たちの一人がフリードリヒを質した。
「陛下。これはいったいどういうことですかな?」
「君たちが来るのを待っていられなかったのでな。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は開放してしまった」
「それでは我々が無駄足だったと…」
「いや。そのようなことはない。これから他のルーシ諸国をモンゴルから奪還するのだ」
「ロマーノヴィチ公だけではなく、他の諸侯も助けるとおっしゃるのですか?」
「ここまで来たのだ。当然ではないか」
「しかし、そのようなこと…」
将軍たちは顔を見合わせて迷っている。
将軍たちの気持ちはわかる。
今回の多国籍軍はほとんどがハールィチ・ヴォルィーニ大公国の隣国だ。今回の援助の見返りとして、同国からの領地の割譲を期待していたのだろう。
しかし、来てみたら既にハールィチ・ヴォルィーニ大公国は開放されているという。これでは報酬を要求しようがない。
フリードリヒは少し意地悪を言ってみる。
「その気がないのなら帰ってもらって構わないが、何も働いていないのだから無報酬になるな…」
「そ、それは…困ります。しかし、他のルーシ諸国から報酬が出るのですかな?」
「最終的にはモンゴルの奴らをやり込めて賠償金をふんだくれば良いではないか」
「そ、そんな途方もないこと…」
「とにかく、貴国らへの報酬がないというようなことがないよう、朕が取り計らう。そこは朕を信じてくれ」
「承知いたしました」と将軍たちは渋々了承した。
◆
こうして多国籍軍が手分けをして、ルーシ諸都市を解放していった。
モンゴル軍が各都市に駐留させていた部隊はわずかで、ほとんどが戦闘もなく逃走して行った。
ロートリンゲン軍は、過去の因縁もあって、ウラジーミル公国を担当することにした。側室の一人であるフェオドラ・ユーリエヴナの故郷である。
しかし、現在のウラジーミル大公は、ノヴゴロド公から転身したアレクサンドル・ヤロスラヴィチという他家の人物が務めていた。
ノヴゴロドはルーシの最北に位置する大国であったが、地理的なアクセスの困難さからモンゴル軍の侵略からは逃れていた。一方で、ドイツ騎士団とスウェーデンからその領土を狙われていた。
アレクサンドルは、スウェーデン軍がノヴゴロドに侵攻して来たネヴァ河畔の戦いの際、わずかな兵力で大勝し、逆にスウェーデン軍を壊滅させるとともに敵将ビルゲルを討ち取ってしまう。これによりその勇名はルーシ全土に轟き、アレクサンドルは「ネヴァ河の勝利者」という意味の「ネフスキー」と呼ばれることになる。
アレクサンドル・ネフスキーは、その後ドイツ騎士団が侵攻して来たチュド湖上の戦いでも勝利し、さらに勇名を轟かせた。
ジュチ・ウルス関係では、その首都サライを訪問して臣従することを約束し、その経緯からウラジーミル大公の位を継ぐことを許された。
その後は大公としての権力と権威を高めるため、国内の反ジュチ・ウルス運動を弾圧する一方で、宗教を保護してある程度の自由を許した。
フリードリヒは、先触れの使者を出すと、アレクサンドルとの会見に臨んだ。
念のため軍隊は町には入れず、外で待機させている。
アレクサンドルは開口一番、皮肉を言った。
「神聖ローマ帝国皇帝自らお出ましとは恐れ入る。だが、今頃のこのこと現れてモンゴルから解放してやると言われても困るのだ。我々はモンゴルとはそこそこうまく付き合っている」
「これはルーシの英雄とは思えない意外なお言葉ですな。異民族に臣従して、貢納まで負担しているのでしょう。本当にこのままがよろしいのですか?」
「領土的野心をむき出しにカトリックを強制してくるドイツ騎士団などよりは、信仰に寛容なモンゴルの方がよほどましだ」
「ドイツ騎士団はともかく、我が帝国は信教の自由を保障するように努めているところだ。特に我がおひざ元の首都ナンツィヒではイスラム教のモスクがあるほどだ」
「何っ。ムスリムまで認めているというのか?」
「そのとおり。それにイスラム教国のマムルーク朝とも軍事同盟を結んでいる」
「それは凄いな。しかし、帝国にはローマ教皇がいて、権力を振るっているのだろう?」
「いまだに権力を持っているのは確かだが、権力は陰りをみせている。それに教皇とは政治と宗教の相互不可侵を貫くように努力はしている」
「なるほど。帝国が宗教に寛容なことはよくわかった。協力するにはやぶさかではないが、帝国はモンゴル軍に勝てるのか?」
「今までもポーランドとハンガリーでモンゴル軍を撃破している。それだけでは不満か?」
「そのことは聞き及んでいる。だが、今度はジュチ・ウルスの奥深くに攻め込むことにもなるだろう。その点は大丈夫なのか?」
「我が軍の輜重部隊は優秀なことで有名だ。ジュチ・ウルスの奥地だろうと変わりはない。ルーシ諸国に迷惑はかけない」
「あいわかった。帝国がそこまで言うのならば信じよう。私とて異民族に臣従するのは気持ちの良いものではないからな」
「ご理解いただき感謝する」
こうしてウラジーミル公国も解放されることとなった。
◆
ルーシ諸国は驚くほどスムーズに解放された。
これに対するモンゴル側の大規模な抵抗は今のところ見られない。そこにフリードリヒは不気味な感覚を覚えていた。
──新当主のベルケは何を考えている?
動きがないまま数か月が経過した。
だが、そこでフリードリヒに一つの報告があった。
「ルーシ諸国に駐留している多国籍軍に疲弊の色が見られます」
そこでフリードリヒはベルケの作戦にようやく思い当たった。
多国籍軍の兵站は遠くルーシの地まで伸びきっており、これを維持するだけでも多額の戦費を要する。
だからといって兵糧の調達を安易にルーシ諸国からの現地調達に切り替えてしまうとルーシ諸国の不興を買ってしまうおそれがある。
──なまじ徹底した焦土作戦ではないだけに気づくのが遅れた…
ちょうどその時、多国籍軍の将軍たちが姿を現した。
「陛下。いつまでルーシの地に留まればよろしいのですかな?モンゴル軍はいっこうに姿を現わさぬではないですか。兵站を維持するだけでも一苦労なのですが…」
「わかった。多国籍軍については任務完了ということで帰路についてもらおう」
「しかし、それでは…報酬の方は大丈夫なのでしょうな?」
「同じことを二度言わせる気か?朕を信じろと言ったであろう」
「それは…そうなのですが…」
「まだ何か?」
「い、いえ。承知いたしました」
多国籍軍は三々五々と帰路についた。
残されたのはロートリンゲン軍が5千人弱のみである。
実はロートリンゲン軍の兵站には秘密があった。
第6近衛騎士団の時代から輜重部隊はダミーであり、実際の兵糧は大規模な空間魔法をエンチャントしたマジックバッグの中に収められている。
その量は優に3年分はあるし、仮に尽きたとしてもフリードリヒがテレポーテーションでナンツィヒまで取りに戻れば瞬く間に補給可能である。
だが、このことは最高の軍事機密で、モンゴル軍にも知られていないはずである。
◆
それから1ヵ月経ってもモンゴル軍の動きはない。
ロートリンゲン軍がやせ我慢をしていると思っているのか…
だが、そちらが動かないのならば、それなりのやりようはある。
フリードリヒはソロモンの指輪を擦るとイフリートを呼び出す。
「出でよ。イフリート」
煙が立ち込め、イフリートの姿になった。
「イフリート。御身の前に」
「この手紙をビザンチンの女帝コンスタンツェに届けよ」
「御意」
それからアレクサンドルに依頼して、懇意にしているキプチャク平原のポロヴェツ人を紹介してもらった。
ポロヴェツ人の代表がやってくるとフリードリヒは切り出した。
「報酬ははずむので、ポロヴェツ人のネットワークを使って『モンゴル軍はロートリンゲン軍に恐れをなして逃げ腰になっている』という噂を広めて欲しい。キプチャク平原だけではなく、グルジア方面やヴォルガ・ブルガールにも頼む」
そういうとフリードリヒはダイヤモンドがぎっしりと詰まった小袋を無造作に放り投げた。
「それは手付金だ。納めておいてくれ。成功の暁には、その倍のダイヤモンドを払おう」
「こ、これは…本物なのか?」
「偽物を掴ませたところで朕の評判が下がるだけだ。そのようなことをするはずがなかろう」
「それもそうだ…」
早速、ポロヴェツ人は噂を広めてくれている。
それが浸透した頃合いを見計らって、フリードリヒはジュチ・ウルスに臣従している各領主宛に決起を促す檄文を送りつけた。
檄文では、「クルムシ率いるモンゴル軍がロートリンゲン軍に散々に打ちのめされ、以後恐れをなして逃げ回っている」とこきおろしている。
最初に動いたのはルーム・セルジューク朝である。
ルーム・セルジュークには、そもそもモンゴル軍が駐留していないうえ、いざとなればビザンチン帝国が後ろ盾となることをほのめかしたら、カイカーウスⅡ世は簡単に独立を宣言した。
それにカイカーウスⅡ世は、政敵であったクルチ・アルスラーンを認めたモンゴルのことを良く思っていなかったのだ。
続いてグルジアが独立を宣言した。
後背のルーム・セルジュークが独立した以上、モンゴル陣営に留まっていては、グルジア人がルーム・セルジューク朝を攻める尖兵とされかねない。
そのくらいらならば、いっそ独立してモンゴルに反旗を翻そうということのようだ。これはモンゴルの辺境鎮戍軍の制度が裏目に出た形だ。
ここまでくると流れは止まらず、ジュチ・ウルスの首都から遠いキプチャク平原西部のポロヴェツ人たちも反旗を翻した。
残るはヴォルガ・ブルガールであるが、チャガタイ汗国と近いこともあって、ジュチ・ウルスの駐留兵が多く、簡単には独立とはいかないようだ。
──さすがにヴォルガ・ブルガールは手助けが必要かな…
フリードリヒは、次の一手を思案していた。
◆
一方、ジュチ・ウルスの新当主となったベルケは、各地の領主が反旗を翻した報告を聞き、最低の気分だった。
準焦土作戦により、多国籍軍が帰参するまでは順調だった。
──ロートリンゲン軍の兵站はいったいどうなっているのだ?
「ベルケ様。どういたしましょう?」と重臣の一人が問うた。
「反旗を翻した領主らは風見鶏だ。ロートリンゲン軍さえ叩いて追い返せば、再び我らにすり寄ってくるだろう。問題は、ロートリンゲン軍をいつどうやって叩くかだが…」
「ロートリンゲン軍に味方する天使軍団は侮れませんぞ」とクルムシが釘を刺した。
「しかし、たかだか5千なのであろう?」
「我らに立ちはだかったのは5千ですが、さらに温存しているやもしれませぬ。それにロートリンゲン軍には、反マムルーク朝の領主を制圧した際に数十万の悪魔を使役していたとの情報もあります。他にも竜を使役する従魔士がいるなどの情報もあり、底が見えません」
「それらがすべて真実だとすると侮れないことは確かだが…どこまで信じるかだな…
誰か。ゲルトラウトを呼べ」
「はっ」
間もなく、ゲルトラウトがやって来て、平伏した。彼は引き続きジュチ・ウルスに仕え、帝国に対する復讐の機会を窺っていたのだ。
「ゲルトラウトよ。ロートリンゲン軍が悪魔や竜を使役するというのは本当なのか?」
「私が戦った限りでは、ダークナイトという闇の者を1万体ばかり召喚していたのは事実ですが、悪魔や竜は見かけておりません。
確かなことは言えませんが、あれだけの規模の戦いだったのですから、悪魔や竜を使役できるのであれば使っていてもおかしくはなかったと思われます」
「なるほど…となると悪魔や竜については微妙だな…
ところで奴の大規模殲滅魔法の対策の方はどうなっている?」
「そちらについては、なんとかなりそうです」
「わかった。
では、皆の者。今の事態を放置することはできぬ。ロートリンゲン軍との戦いを想定して直ちに準備にかかれ!」
「「「はっ」」」
──これ以上の好き勝手はさせぬ…
ベルケは闘争心を燃え上がらせるのであった。
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