ブラバント公国の北の海沿いの低地にホラント伯国、その南にゼラント伯国がある。
形式的にはロートリンゲン大公国の外にある独立した領邦国家であるが、この辺り一帯、いわゆるフランドル地方はイングランドから輸入した羊毛を使った毛織物が盛んであり、ヨーロッパの中でも商業が盛んな地方であった。
フリードリヒは現在展開している自由貿易協定をぜひこの両国にも広げたいと考えていた。
外務卿のヘルムート・フォン・ミュラーを呼び、下交渉を命じる。
ミュラー卿は、フランドル伯家と縁戚関係にある下ロタリンギアのエノ―伯家の出身で、現当主のジャンヌ・フォン・フランドルの甥に当たる。
小領邦国家が乱立していたこの地域にあって、権謀術数を叩きこまれた逸材であり、この地域に対する土地勘もあり、この交渉については適任者と思われた。
「ミュラー卿。私としては自由経済圏を北側にも広げたいと考えている。ついては、ホラント伯国・ゼラント伯国の両国との自由貿易協定の締結交渉を頼みたい。もちろん最終的には私が出ていくことで構わない」
「承知いたしました。閣下」
ミュラーは、まずホラント伯のもとへ向かった。
力関係からいって、ホラント伯が折れればそれよりも弱小なゼラント伯国はなびくと考えたからである。
ホラント伯のウィレム・フォン・ホラントは、フリースラントの制圧を試みたり、ゼラント伯国に圧力をかけたりする野心家でもあった。
それだけに交渉に素直に応じるかどうかは微妙であった。
「ホラント伯。ロートリンゲン大公国の外務卿を拝命いたしましたヘルムート・フォン・ミュラーと申します。以後お見知りおき願います」
「あの新参の大公国か。しょせんは寄せ集めであろう」
「それは心外な! 我が国は先の内乱の際は一致団結して当たり、フランドル伯国も完膚なきまで叩きのめしました。また、ブラバント公国も領主が代替わりし、今では大公閣下のご威光のもと一致団結して政務に邁進しているところです」
「しかし、大公はまだ16歳の小僧だというではないか」
「年齢の問題ではございません。大公閣下は自らの実力でホルシュタイン伯となり、ロートリンゲン大公となられたのも自らの実力でございます」
「まあよい。用件は何だ?」
「単刀直入に申し上げますと、貴国と自由貿易協定の締結を希望いたします」
「ああ。ザクセン大公が結んだというあれか。所詮は舌先三寸で騙されたのではないか?」
「いえ。自由貿易圏では確実に産業が活況となってきております。それに必要なフリードリヒ道路も整備され、これから益々発展していくことでしょう。ここでこの流れに乗らないと貴国は時代の流れに取り残されますぞ」
「う~む。それについてはわからんでもない。検討する故、しばし待て」
「承知いたしました」
ミュラーが退出するとホラント伯は内務担当の臣下を呼んだ。
「おまえは如何に考える?」
「あながち嘘ではございませんな。自由貿易協定を結んだザクセン大公国は確かに産業が発展してきていることは事実です。それにあのフランドル伯国までもが参加しているとか…」
「それはわかった。だが、あの小僧に領土的野心はないのか。協定を口実に我が国を狙っているやもしれぬ」
「ロートリンゲン大公は最後まで抵抗したブラバント公国も領地を安堵したと聞きます。それに大敗したフランドル伯国もわずかな領土を差し出したのみで許されました。
そういう意味では心配はないのではと愚考いたします」
「わからんでもないが、確信は持てぬな。まずは本人と会ってみるとするか」
「心配であれば、嫁を差し出して縁戚になるという手もあります。アメーリエ様もちょうどお年頃ですし、一考の価値はあるかと…。
それにフランドル伯あたりが妙な気を起こしたときに後ろ盾になってもらえれば心強いかと思われます」
「う~む。アメーリエをか…。では、さりげなく会わせて本人が気に入ったなら考えよう。本人の意思に反してまで嫁に出そうとは思わぬ」
「御意」
ミュラー外務卿はホラント伯が直接フリードリヒに会って交渉したい旨を伝えられた。
──本当は私の力で決めたかったのだが、仕方がない。
ミュラーはナンツィヒのフリードリヒのもとに向かった。
◆
フリードリヒはミュラーからの報告を聞いた。
──なまじ強いと相手からは警戒されるということか…。
「ミュラー卿。私が出張っていくことは想定内だ。気にすることはない」
「恐れ入ります」
さて、どうするかな…
護衛を多数引き連れて軍事力をひけらかすのは今回は逆効果だろう。
アスタロトは放っておいてもついて来るだろうし、思い切って公式な護衛はアダルベルト一人にするか。
やはりいざという時に心を許せるのはアダルベルトである。
「…ということだ。アダル。よろしく頼む」
「閣下。自信がない訳ではありませんが、私一人というのはいかがなものかと…」
「今回は相手を信用しているというポーズが必要なのだ。
いつもどおりアスタロト配下の悪魔を何十人か隠形させて伏せておく。それならば安心だろう」
「御意」
今回は少数だし、面倒だからテレポーテーションで近くまでいくか。
ホラント伯領近くまでテレポーテーションでいくと、さも旅をしてきたかのように馬車を走らせ始める。
馬車には護衛として騎馬したアダルベルトと執事の恰好をしたセバスチャンが付きしたがっている。
馬車の中ではマグダレーネことアスタロトがまたとない機会とばかりにフリードリヒにベタベタしている。
「ちっ」アダルベルトはそれをみて露骨に不快感を露にした。
アダルベルトは、結局ヴィオランテが連れてきたフリーダ・フォン・アイヒェンドルフと結婚したのだが、フリードリヒに対する特別な思いをまだ捨てきれずにいた。
が、これは本人の胸のうちに秘められたままである。
──フリードリヒ様はこういうことには意外と鈍感だから気づいてはいないと思うが…
それをセバスチャンは横から鋭い目で見ていた。
ホラント伯国の国境に差しかかると迎えの護衛兵が20人ばかり待ち構えていた。
隊長と思われる者が話しかけてくる。
「ロートリンゲン大公閣下の一行ですね」
「そうだ」
アダルベルトが答える。
「ずいぶんと護衛が少ないのですね」
「ロートリンゲンの国内ならばこれで十分だ」
「左様ですか…」
隊長は腑に落ちない様子だ。おおかた吝嗇家とでも思われたのかもしれない。
──少し極端すぎたかな…
一行はそのままホラント伯の城まで直行した。
城ではホラント伯が出迎えてくれた。
早速、挨拶をする。
「これは大公閣下。わざわざご足労いただき誠に恐れ入ります」
言葉にトゲがある感じだ。若造と侮っているな。
「フリードリヒ・エルデ・フォン・ザクセンだ。よしなに頼む」
「ははっ」
そのまま応接室らしき部屋に通される。
「閣下におかれましては、長旅でお疲れでしょうからしばしご休憩ください。
今流行りの紅茶などお出しいたします」
「それは丁度よかった。今回は土産に茶器を持ってきたのだ。それを使ってもらおう」とセバスチャンに合図をする。
セバスチャンはティーポットとカップのセットを取り出した。
フリードリヒがタンバヤ商会に作らせた特別製の茶器で見事な花柄の絵付けがされている。
「ほう。これは見事な…。では、早速…」
ホラント伯は茶器に感銘を受けたようだ。
執事らしき男の指示でメイドが紅茶とお茶請けのクッキーを持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう。お嬢さん」
メイドは赤い顔をしてそそくさと下がってしまった。
紅茶を飲んでみると…
不味い。薄いし、お湯もぬるい。これでは色のついた白湯ではないか
フリードリヒは思わずアダルベルトと顔を見合わせた。
「喉が渇いているのでもう一杯いただこうか。
こんどはうちの執事に入れさせよう。このセバスチャンは紅茶を入れる名人なのだ」
「それは恐れ入ります」
程なくしてセバスチャンが紅茶を入れて戻ってきた。
完璧な動作で紅茶を給仕する。
ホラント伯は紅茶を一口飲むと感嘆した。
「美味い。これが紅茶の本当の味わいなのですな」
「どうやら卿は時流に乗れていなかったようだな」
「お恥ずかしい限りです」
「これで紅茶が流行っている理由がわかったであろう?」
「恐れ入りましてございます」
商売人でないから流行に敏感でないのは仕方がないと言えばそれまでだが、領主がこれでは領内の様子も推して知るべしである。
それから場を移して自由貿易協定の交渉が行われた。
まずはフリードリヒから先制パンチを繰り出す。
「卿も紅茶の件で実感したと思うが、経済というものは恐ろしい速さで進化していくものだ。これを最大限発揮させるためには通行税などの商人たちの障害となるものを取り払ってしまうのが一番だ。貴国にもその一員として加わってもらいたい」
それからフリードリヒは、自由経済の効用を経済理論に従って滔々と説明した。
ホラント伯は半分も理解していない様子だったが、同席している臣下の何人かは理解したであろうと看做し、気にせず説明を続ける。
「…ということです。いかがですかな」
──軍事力に任せた力押しの国と思っていたが、あの頭の切れといいロートリンゲン大公国が益々発展することは間違いがない。この勝ち馬に乗らない手はないな…
「いやあ。大公閣下のお話には感服いたしました。我が国は喜んで自由貿易協定に参加させていただきます」
「それは重畳」
難航も予想された交渉だったが、こうしてあっけなく解決を迎えた。
◆
その晩。交渉成立を祝して晩餐会が催された。
ホラント伯から家族を紹介される。
「こちらが末娘のアメーリエでございます」
「アメーリエ・フォン・ホラントです。よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしく。お嬢さん」
歳は14歳くらいであろうか。まだ初々しい感じの可愛らしい少女だ。
少し恥じらう姿が昔を思い出させた。
宴が進み。皆がダンスを始めた。
アメーリエが誰にも誘われずにポツンと所在なさそうにしている。
フリードリヒはアメーリエのところへ向かうと、手を差し伸べる。
「一曲踊っていただけますか? お嬢さん」
一瞬恥じらった後、アメーリエは答えた。
「喜んで!」
アメーリエのダンスは少したどたどしい感じだった。
「だいじょうぶ。落ち着いて…。誰もお嬢さんのことを笑ったりしません。周りを気にせずに私だけを見てください」
「はい」
ニコリと微笑んだアメーリエの顔がとてもチャーミングで、少しドキリとした。
──こっちが緊張してどうする。
◆
翌日。
ホラント伯が訪ねてきた。
「大公閣下。実はアメーリエが閣下のことをいたく気に入ってしまいましてな。あれから閣下の話ばかり。耳にタコができるとはこのことですな。はっはっはっ」
なんだか嫌な予感…
「それでですな。嫁でも愛妾でもいいので、もらってやっていただけませんか?」
やはりそうきたか。ここまで交渉が順調にきているのに断れるはずかない。
「いいでしょう。側室として迎えることになりますが、よろしいですね」
「もちろんです」
◆
程なくして、結婚式はホラント伯国と所縁のあるユトレヒト司教の教会で無事行われた。
が、しばらくの間、妻たちや愛妾たちの機嫌が悪かったのはいうまでもない。
◆
ゼラント伯国については、予想どおりホラント伯国が協定に参加したと聞くとすぐに乗ってきた。
フリードリヒの出番はなかった。
これはミュラー外務卿の手柄ということにしておこう。
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