第5回十字軍は失敗に終わり、原因の一つとして、教皇ホノリウスⅢ世に十字軍遠征を誓いながら自らは出発しなかった神聖帝国皇帝フリードリヒⅡ世が非難された。
ホノリウスⅢ世は破門をちらつかせて、新たな十字軍の遠征を迫ったが、宗教的に寛容なシチリア王国に育った皇帝フリードリヒⅡ世は十字軍に熱意はなく、十字軍をイタリア政策における教皇との交渉材料として認識していた。
シチリア生まれでイタリアで育った皇帝フリードリヒⅡ世のアイデンティティーはあくまでもイタリアにあった。
彼は地中海からパレスチナの地に神聖帝国=シチリア王国の勢力を拡大することを目指していたのである。
このため、神聖帝国北部、すなわちドイツについては皇太子ハインリヒを共同統治者としてローマ王=ドイツ王の地位に置き、ハインリヒと顧問団にドイツの支配を委ねて自らはシチリア王国のパレルモに戻った。
◆
話は過去に遡る。
エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの一行がシチリア王国のブリンディジに上陸したことを受け、皇帝フリードリヒⅡ世はブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。
ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒとブリエンヌの娘イザベルⅡ世の結婚、結婚後2年以内に皇帝フリードリヒⅡ世が十字軍に参加する取り決めが交わされた。
取り決め当時、イザベルⅡ世はまだ10歳だった。ロートリンゲン公フリードリヒも幼妻と結婚したが、皇帝も似たようなものだったのである。
その後皇帝フリードリヒⅡ世は成人したイザベルⅡ世と再婚し、同時にブリエンヌにエルサレム王位とイザベルⅡ世が有する権利を譲渡させた。
そして2年後、そしていよいよ約束の十字軍を出発させることとなり、ロートリンゲン公フリードリヒもその一行に加わるべく準備を進めていた。
ロートリンゲン公フリードリヒも海賊退治やら何やらやっている間に20歳となっていた。
これ先立ち、皇帝フリードリヒⅡ世は第6回十字軍に備えてイタリア諸侯を召集すべく、イタリアに出兵した。しかし、ミラノを始めとする諸都市は、第2次ロンバルディア同盟を結成しこれに対抗し、戦線は膠着していた。
◆
アイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱き、これまでに聖地を侵略してきたフランク人たちとは大きく異なる皇帝フリードリヒⅡ世に興味を抱き、2人は書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合う中だった。
彼は第6回十字軍が動き出そうとしているという情報をいち早くつかむと対応を黒衣の男と相談する。
「予としては友と矛を交えることは気が進まぬのだが…」
「ならば十字軍の根源を断ってはいかがです?」
「根源とは?」
「ローマ教皇のことですよ」
「そんなことが可能なのか?」
「前に言っていたロートリンゲン公フリードリヒを暗殺することに比べれば赤子の手をひねるようなものです」
「ならば試してみよう」
「御意」
黒衣の男の手足となっている暗殺教団は、事前に手の者をターゲットに潜伏させており、その出没は予測不可能だった。いったん指令が出されれば暗殺者は死を恐れずに行動するため、ほぼ確実にターゲットを仕留めたという。
皇帝リードリヒⅡ世の軍はシチリア南部で山賊行為をしていたイスラム教徒を討伐し、10,000人のイスラム教徒を捕らえた。
皇帝リードリヒⅡ世は捕らえたイスラム教徒を新たに建設した都市ルチェーラに移住させ、彼らに自治を許したという。
実はこの中に暗殺教団のネズミも潜んでいたのである。彼らはここを拠点にイタリア各地に潜伏・活動していた。
◆
ある夜。フリードリヒは夢を見た。
ローマ教皇ホノリウスⅢ世の部屋に見慣れない黒衣の者が忍び込んだと思ったら、その喉笛を一気に掻き切った。
と思ったら、あっという間に黒衣の者は逃走して行った。
一瞬のうちの見事な技だった。
あきらかに暗殺のプロの仕業だ。
フリードリヒは、そこで目が覚めた。
先ほどの夢はかなりクリアに覚えているので、予知夢であろう。
◆
次の日。
タンバヤ情報部のアリーセを呼んだ。
「教皇についての情報は入っていないか?」
「いえ。特にはありませんが…」
突然の問いに不審な顔をするアリーセ。
「教皇が暗殺されるおそれがある。守ってやる義理もないが、見過ごすのも気持ちが悪いからな…」
「それは…本当ですか?」
「可能性としては大きいと思う。相手はプロだから万全を期して眷属4人組で教皇に張り付いてくれ」
「相手は何者ですか?」
「おそらくヨーロッパの者ではないな。アイユーブ朝絡みの可能性が大きい」
「そうなると予測が難しいですね」
「確かに未知の手段を使ってくる可能性はあるな。とにかく、あらゆる可能性を想定しておいてくれ」
「御意」
アリーセ他4人の眷属たちは早々に出発していった。
◆
アリーセたちは24時間教皇に張り付いていた。
だが、こちらも隠密のうちの行動なので教皇の護衛に見つからないようにしなければならないという点で、かなりの制約もあった。
ある晩の深夜。
教皇の部屋から「ウッ」という呻き声が聞こえた。
──しまった。やられたか…
次の瞬間、黒い不審な人影がアリーセの視界をかすめた。
アリーセは指示をだす。
「ラウラは大至急教皇の様子を見てきてくれ」
「わかったわ」
「レネとベルントは私と一緒に奴を捕らえる。回り込んで挟み撃ちにするんだ」
「承知」
4人は早速行動を開始した。
ラウラが教皇の部屋にいってみると教皇は喉笛を掻き切られていて、既にこと切れていた。
異変を察知した教皇の護衛がドアをしきりに叩いている。
「教皇様!どうされました?」
このまま残っていたら冤罪になってしまう。
ラウラは慌てて教皇の部屋を後にした。
一方、アリーセたちは黒い人影を追っていた。
相当訓練されているらしく、建物の屋根から屋根へ軽々と飛び移って移動している。
「私が後ろから追うからレネとベルントは左右から回り込め」
「承知」
相手は追われていることを当然に承知している。
アリーセを巻こうと建物の陰に入っては方向転換を繰り返している。
しかし、今は深夜だ。ヴァンパイアの眷属が一番活発に行動できる時間帯である。そう簡単に巻かれはしない。
そのうちレネが黒い人影の前に立ちはだかった。
が、すんでのところで捕らえそこなった。
黒い人影が方向転換したちょうどその先にベルントがいた。
これで3方を囲まれた形だ。
黒い人影は短刀を抜くと、戦闘の構えをとった。
こちらも短刀を抜いて応戦する。
しかし、3対1の戦いである。
明らかに敵の方が分が悪い。
「殺すな! 捕らえて情報を吐かせるのだ」
「承知」
レネの膝蹴りが黒い人影のみぞおちに決まった。
痛みで隙が生じたところにベルントが延髄にチョップをかました。
そこで黒い人影は気を失った。
「よし。今のうちに縄で拘束しろ」
レネとベルントが手際よく黒い人影を縛っていく。
レネが何か気づいたようだ。
「こいつ女ですぜ」
「何っ!」
女の身であの運動の能力とはたいしたものだ。
「口に自害用の毒を含んでいないか調べろ」
「ありました」
ベルントが探し出し、それを取り除いた。
「あとは舌を噛まれてもやっかいだからな。猿ぐつわも噛ませておけ」
「承知」
ちょうどそこにフリードリヒがテレポーテーションでやってきた。
「これは閣下」
「私も手伝おうと思ったのだがな。遅かったか…」
ちょうどそこにラウラが戻ってきた。
「教皇の方はどうだった?」
ラウラは首を横に振った。
「申し訳ございません。みすみす敵を見逃してしまいました」
「ヴァンパイアの眷属が4人がかりでもダメだったのだ。やむをえまい。
これも神の思し召しというやつだろう」
そして黒衣の人物の方を向いてフリードリヒは言った。
「こやつもかなり訓練を受けているだろうから情報は吐かないだろうな。だが、ダメ元でいちおうナンツィヒに連れて行って尋問してみよう」
「御意」
フリードリヒは皆を連れてナンツィヒにテレポートした。
◆
ここはナンツィヒの城の尋問室である。
これ見よがしに拷問の道具が置いてある。
そこに黒衣の人物を横たえると、顔を隠している頭巾を取った。
やはり女性だ。しかも若い。まだ20歳前だろう。
そこで女の意識が戻ったようだ。
「ここは…」
フリードリヒが答えた。
「ナンツィヒの城の尋問室だ。君にはいろいろと教えてもらいたいことがある」
「私は何もしゃべらぬ」
「それは困ったな。それでは不本意ながら君をここにある道具で拷問しなければならなくなる」
「私は訓練を受けている。拷問などに屈することはない。
それよりもここで生き恥をさらすのは不本意だ。さっさと殺すがいい」
「私は無駄な殺生は好まない。拷問しても情報は吐かないとなると…」
──ここは放置プレイだな…
「わかった。では、好きにするがいい。アリーセ。縄を解いてやれ」
「えっ。閣下。本気ですか?」
「くどいぞ。私は無駄なことはしない主義なのだ」
「承知しました」
アリーセが黒衣の女の縄を解いていく。
「せめて名前だけでも教えてくれないかな。それだけなら問題ないだろう?
黒衣の女はしばし逡巡の後、答えた。
「アズラエルだ」
「ほう。イスラムの天使の名か。いい名前だ」
「褒めたところで、何もしゃべらないぞ」
「ただ感想を言っただけだ。
さあ。君はもう自由だ。どこへなりとも行くがいい」
しかし、アズラエルはそこに立ち尽くしている。
「どうした? 仲間のところへ帰ればよいではないか?」
「仲間は私が捕まったことを把握しているだろう。そこへおめおめと生きて帰れるものか」
「そうだよな。普通二重スパイを疑うよな。
だが、君は死にたがっていたから、仲間に殺してもらえばいいのではないか?」
「くっ…だが、おまえの命を手土産にすれば…」
アズラエルはフリードリヒを睨んだ。
今自分は丸腰だ。格闘術だけで奴が倒せるか?
いや。無理だ。あの身のこなしといい、私がかなう相手ではない。
「帰るところがないんじゃ困ったね。では、君には部屋を用意してあげるから、しばらく滞在してじっくりと身の振り方を考えるといい」
アズラエルは驚いたような顔をしてフリードリヒの方を見た。
──捕らえた暗殺者をこんなに厚遇するなんて、こいつはバカなのか…?
だが、利用できるものはとことん利用すればよい。
「では、甘えさせてもらう」
「ああ。そうしてくれ」
◆
ホノリウスⅢ世は亡くなったが、結局、十字軍は出発することになった。
黒衣の男がアル=カーミルに尋ねる。
「また奴らを使ってみますか。それなりに数は減らせますが…」
「予はあまり好かぬが、やむを得ぬ」
「御意」
その日の深夜。黒衣の男が合図をすると暗闇の中から同じような黒衣の男があらわれた。暗殺教団の者である。
「十字軍の蠅どもをなんとかしたい。今回もあれを使う」
「御意」
あれとはペスト菌のことである。暗殺教団は経験的にペスト菌を操る術すべを獲得していたのだった。
◆
十字軍は出発し、イタリア半島突端近くのブリンディシュまで行ったが、疫病が流行して多くの将兵が命を落とし、従軍していたテューリンゲン方伯ルートヴィヒⅣ世も死亡したため、結局引き返してしまった。
新たに教皇となったグレゴリウスⅨ世は強硬派として知られており、この帰還を誓約違反としてフリードリヒⅡ世を破門にした。
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