モンゴル帝国の分裂により、当方における大きな火種はなくなり、引退へ向けての準備を進めるフリードリヒであったが、シチリアの地で火種が燻っていた。
コンラートⅣ世が死去し、シチリア王は息子のコッラディーノが継いだが、まだ2歳と幼少であり、母方の叔父のバイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ2世に保護され、ドイツに居住していた。
このため、前神聖帝国皇帝=シチリア王のフリードリヒⅡ世とビアンカ・ラアンチアの息子マンフレーディが、シチリア摂政としてシチリア王領を実質支配していた。
その後、マンフレーディは、コッラディーノが死んだという誤報を受け、シチリア王位を継いだ。間もなく誤報であることが判明したが王位を譲らなかった。
マンフレーディは、北イタリア支配を巡って教皇領に侵攻し、ローマ教皇と対立した。
このため、ローマ教皇クレメンスⅣ世の要請で、フランス王ルイⅨ世の弟シャルル・ダンジューがシチリアに侵攻することとなった。
シャルル・ダンジューは、コンラートⅣ世の時代にもローマ教皇からシチリア王を提示されていたが、ヨーロッパの平和・安定を願うルイⅨ世はこれを許さず、話は立ち消えになっていた。
しかし、今度はルイⅨ世も、庶子でありながら王位を簒奪したマンフレーディに不満を抱いていたため、これを承認したのである。
シチリアに侵攻したシャルル・ダンジューは、ベネヴェントの戦いでマンフレーディを討ち死にさせ、シチリアを占領した。
さらに、シチリア王位を求めて北イタリアに侵攻してきたコンラートⅣ世の子コッラディーノもタリアコッツォの戦いで捕らえ処刑することにより、ホーエンシュタウフェン家の直系男子の血筋は絶えることとなった。
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シャルルの野望はとどまるところを知らず、今度はシチリア王伝統の政策であるビザンチン帝国進出の野望を抱くようになる。そのために、彼は綿密な政治工作を次々と繰り出した。
まずは、男子後継者の見込みがないアカイア公国のギヨームⅡ世・ド・ヴィルアルドゥアンとヴィテルボ協定を結び、ギヨームを従臣とした上で自分の次男フィリップとギヨームの娘イザベルを結婚させて両者を後継者とし、彼らに男子が産まれない場合にはシャルル自らがアカイア公となるべきことも決定した。
その後、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒによって国を追われたラテン帝国皇帝ボードゥアンⅡ世ド・クルトネーを保護し、さらに彼の息子フィリップと自分の娘ベアトリスを結婚させてその保護者に収まり、ラテン皇帝の地位を相続した。これにより、ビザンチン帝国進行の正当性を主張した。
さらにエルサレム王国の継承権を手に入れ、エルサレム王を称した。
その後、次男フィリップ、アカイア公ギヨームが共に男子後継者なく死去し、シャルルはアカイア公も兼ねることとなった。
こうした背景の上に、さらにいくつかの領土をアドリア海岸に獲得してビザンチン帝国に侵攻しようとした
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これに対抗して、ビザンチン帝国女帝コンスタンツェは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒと共闘して、遠征のために重税を課せられていたシチリア住民の反フランス感情を煽る工作を行った。
そして悲劇は起こった。
アンジュー家の兵の一団がパレルモでシチリア住民の女性に暴行したことに怒った住民が暴徒化した。たちまちのうちに暴動はシチリア全土に拡大し、4000人ものフランス系の住民が虐殺された。
事件の発生した3月30日は復活祭の翌日に当たる月曜であり、教会の前には大勢の市民が晩祷を行うため集まっていた。彼らが暴動を開始したとき、晩祷を告げる鐘が鳴ったことから「シチリアの晩祷」あるいは「シチリアの夕べの祈り」と称されるようになった。
シャルルと親しかったローマ教皇マルティヌスⅣ世は、十字軍の作戦を妨害したかどで全島民を破門にするという処置を取った。
やがてシャルル側も反撃に出て暴動の鎮圧も時間の問題と思われたのだが…
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神聖ローマ帝国皇太子のジークフリートは悩んでいた。
シャルルの野望を打ち砕いたパレルモの民衆が弾圧されるのをこのまま見過ごしていいのか?
しかも、自分はコンラートⅣ世の甥であり、女系ではあるがホーエンシュタウフェン家の血を受け継ぐ者だ。
ジークフリートは決断すると、父のフリードリヒに相談した。
「父上。私はホーエンシュタウフェン家の血を継ぐ者として、パレルモ、ひいてはシチリアの住民が弾圧されるのを見過ごすわけにはいきません。ぜひ出陣の許可をいただきたく存じます」
「おまえがそのように判断するのならば、それを尊重しよう」
「ありがとうございます」
時空精霊のテンプスの転移魔法でシチリアへと向かった神聖ローマ帝国軍は、シャルルの軍勢から見ると降って湧いたようなものだった。
不意を突かれたシャルルの軍勢は、シチリア各地から次々と駆逐されていき、本拠地とするナポリに押し込められた。
しばらくの間、シャルルはナポリで抵抗を続けていたが、やがて失意のうちに病死した。
その後、ジークフリートはシチリア住民の要請もあり、シチリア王となった。
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