【カフィノム日誌】
ここに来て20日程度過ぎたこの日。
アタシはまさかのシキさんポジション、コーヒーを淹れる側になった。
難しいと思うんだけど、アタシに務まるのかな……?
シキさんの変化宣言から翌日。
今日は倉庫整理はナシで、早朝からアタシとシキさんはカフィノムのカウンターに立っていた。
「さって! ファイちゃん、準備いい?」
糸目のまま、よしっ! と胸の前で拳を握って気合十分のシキさん。アタシはというと、少し手が震えるほどには緊張していた。
今までシキさんが立っていたここに、自分がいること。単なる場所の違いなのに、見える世界が違う。カフィノムの全体がよく見える。シキさんはこんな目線でここを見ていたんだ。
「ファイちゃんはブラックコーヒーが好きだよね?」
「う、うん。サトーもミルクも入れないわ」
「その、最も普通のコーヒーなんだけど、湯加減や注ぎ方で全然違うものなんだー。お手本見せるから、一度マネしてみてね」
そう言って、銀のポットを火にかけるシキさん。その間に、豆の入った容器のレバーを回していた。
「ミル、って言うらしいんだけど覚えなくていいよ」
そんな名前なんだ、知らなかった。どこの言葉なのかも知らないや。
「あと、用意するのはこの三角錐型の紙とそれを入れるカップ型の容器、出したコーヒーを入れるための容器……フィルター、ドリッパー、サーバーって言うんだけど――」
これも覚えなくていいよ、と言うシキさん。じゃあなんで言うんだろうと思いつつも、まずは聞いていた。
どうやら、そんな名前の道具があって使うんだー程度でいいらしい。
「なんでそんな名前なのかも知らないんだけどね。さて、お湯が沸いたよ」
さっきまでゴリゴリと音が鳴っていた豆を挽く器具。それの音とシキさんの手が軽そうになっていた。準備ができたらしい。
湯沸かしとほぼ同時に終えていたあたり、彼女の手際の良さがわかる。
「専門的なことは私も全然知らなくて、感覚的なものだから。見ててね」
言いながら、紙をカップ型の容器にセットし、その下にコーヒーを入れておく容器を置く。
紙に挽いて粉状になった豆を入れて、準備が整う。
――そこから、シキさんの雰囲気が変わった。
「わ……」
黙って工程を進めるシキさんは、いつものぽわぽわした状態とは全然違う。
お湯を注いで……多分、粉を蒸らしているんだと思う、その時の顔は優しい。
そして、もう一度お湯を注いでコーヒーを抽出する姿は、すべてが優雅で、所作がすごく美しかった。
ゆっくりで、柔らかい動作。集中しているけど、険しい顔は一切しない。
相手が見ているにも関わらず、落ち着いていて、気取る様子もない。
しなやかな芯柱……そんな訳の分からない例えが、アタシには浮かんだ。
「これがカフィノムの、マスター……」
シキさん的には『てんちょう』だけど、ハルさんがそう呼びたくなる気持ちがわかる気がした。
ほとんど同じ意味なのに、雰囲気がそうさせる。この雰囲気にお金を払いたくなるくらいだ。
「はい。シキブレ、おまちどうさま」
最後に容器からカップにコーヒーを注いで、出来上がり。2杯のシキブレがアタシとシキさんの前に置かれた。
「い、いただきます」
「うん。いただきます」
またぽわっとした様子に戻って、2人でシキブレを飲む。
やっぱり、美味しい。この味を……アタシも出さなきゃいけないんだ。
カフィノムのみんなが、このシキブレの味に酔うのがよくわかった。ハルさんだけ意味は全然違うけど。
「これが、一連の流れ。まずはやってみよう?」
「よ、余計に緊張してきたわ」
「大丈夫。最初はみんな泥水だから」
「全然大丈夫じゃないと思うんだけどそれ……」
どんな励まし方だろうと思いながらも、今度はアタシが着手する番になった。
見よう見まねだ。シキさんに教えてもらいながら、まずは豆を挽こう。
――それから先のアタシは、あまりにも粗末で、最低だった。
レバーを回している間、手が何度もすっぽ抜ける。
紙をセットして粉を入れる時、手が震えて粉をこぼす。
お湯を沸かすのを忘れて、時間を無駄にした。
蒸らしのためのお湯が多すぎて、熱いお湯が顔に跳ねる。
抽出の時、一気に入れすぎて紙からお湯があふれた。
カウンターの仕事場が、ぐっちゃぐちゃだ。お洒落な雰囲気とはとてもじゃないけど程遠い。
「アタシ、こんなにドジだっけ?」
「ううん、大丈夫大丈夫。初挑戦だもん」
「で、でもこれは、流石に酷いわ……」
自己嫌悪に陥った。こんな醜態、初めてだ。
なんでもそつなくこなせる器量はあったはず。自分に自信はあったはず。
だけど、自分がこんなに『できない』奴とは思わなかった。手際も手つきも、シキさんとは文字通りの雲泥の差だ。
そうして、ようやくできたコーヒー。
「ど、どうぞ……」
「うん。シキブレならぬ、ファイブレだね」
「ファイブレ! 恐れ多い!」
出来はお察しだから余計に恥ずかしい。越えるべく壁が、さらに高くなった気がした。
そして、2人でそれに口をつける。
「……うわ、まっず」
酷い味と、自分のダメさに、思わず泣きたくなった。
言った通り、泥水の味だ。コーヒーへの冒涜にも等しい。同じ豆でこうも違うなんて……。
むしろどうしてシキさんはあんなに美味しいんだろう。
そう思いながら、シキさんを見る。
「…………」
眉を深く寄せ、少し顔を青くして、口元が歪んでいた。
そんなシキさんの表情を見たことがない。むしろ、ついに開眼しちゃうんじゃないかと思った。
何も言わなくてもわかる。本気で酷いんだろう。
「あの、シキさん。れ、練習します」
「……や、私も最初こんなんだったから、ちょっと懐かしくって」
「最初……ね。あっ! そうだ!」
「どうしたの?」
「ねぇ、シキさんはどんな経緯でコーヒーに出会ったの?」
最も根本の疑問だ。タイミングとしても丁度いい。この際だから、聞きたかった。
それを聞くと、シキさんはしばらく黙る。ぼうっとカフィノムの席を見て、少し宙を眺めていた。
そして――
「うーん、まだハルさん来ないから、そうだね。ちょっとお話しよっか」
ぐちゃぐちゃのカウンターを片付けながら、シキさんはもう一度ポットに火をかけた。
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