全力さんと海

ー大祖国戦争前夜ー
伊集院アケミ
伊集院アケミ

第二十三話「帰還」

公開日時: 2021年2月4日(木) 17:11
更新日時: 2024年11月8日(金) 22:18
文字数:3,423

「そうか。こんなの嘴(くちばし)を切って、武器にすりゃ良かったな。だが手斧が無い。それどころか、ナイフも無い。もし持っとったら、オールの端に縛り付けて、見事な武器ができるんやがなあ」


まだ戦えたやないか。でももし、夜の間に奴らが来たらどうする。今度は、何ができるんや?


 辺りは暗く、もうどこにも光は見えない。風だけが吹き、船は着実に進んでいた。もしかしたら、自分は既に死んでいるのではないかと全力さんは不安になった。両手を合わせ、手のひらの感触を確かめる。


「まだ死んじゃおらん」


 両手を開いたり閉じたりするだけで、手のひらの痛みを感じられた。船尾の板に寄りかかると、自分が死んでいないとはっきりと分かった。肩が全力さんにそう教えたのだ。


戦う。死ぬるまで戦うさ。もうオワコンの全力さんじゃないんや」


 全力さんは船尾に横になり、舵を取りながら、灯りが空に反射して来るのを待った。肉はまだ三割ほど残ってる。これを持って帰れるくらいの運はあるはずだ。


「そういや、魚を捕まえたら、お祈りを唱えるという約束があったな。でも今は疲れとって無理や。陸に上がってからにしてもらお」


 独り言ちてから、全力さんは気づいた。もしかしたら自分は、魚に勝った時点で運を使い果たしてしまったのではないかと。


「馬鹿言うな。運は何度だって貯められる。銛を取られ、ナイフは折られ、両手だってボロボロや。これだけひどい目におうたんやから、ゼロって事は無いはずや」


『そういや、合百の結果はどうなったかな?』と全力さんは思った。幸運というものは様々な形で現れる。何が幸運かなんて、終わってみなければ分からない。ただ、どんな形にせよ、多少は何か手に入れたいと思った。


「いや、やっぱダメかもな。あのシュモクは殺そうと思えば、わしを殺せた。命が助かっただけでも、めっけものかもしれん」


 全力さんは最初、百五十日もの不漁を引き受けた代わりに、大量のツキをため込んだ。そして、あの魚に勝った。合百の時は三年だ。「成し遂げる」ためにはツキが居る。努力は必要不可欠だが、それだけで上手く行くほど世の中は甘くない。


 何もしなくても、毎日幸せに暮らせるのは猫だけだ。一年、三百六十五日。本当に楽しい時間が三日もあれば、ソイツは幸福な人間だろう。普通はその三日すらない。苦痛からすぐ逃げ出す人間に、幸運を掴むことは出来ないのだ。


「何があっても腐らずに、その不幸を楽しむ。そうして延々とツキをため込むのが人生の秘訣や」


 全力さんはそれを、この世界に来て学んだ。だが、そのツキを既に使い果たしたとすると、これからどうなってしまうのだろうか?


「まあ、ええわ。無事に帰れさえすれば、どんなひどい目にも遭うたる。望みはたくさんあるが、叶えて欲しいのはそれだけや!」


 全力さんは舵を取りやすいように体勢を直した。空に反射する村の灯りが見えてきたのは二十二時頃だった。最初はおぼろげで、空が明らんでいるだけだったが、やがて、光ははっきりと見えてきた。


 航海は順調に進んだ。魚の肉も減ってない。もしかしたら、このまま逃げ切れるかもしれないと、全力さんは光のほうへ舵を取りながら考えた。


「でも多分、ここまでやな」


 嫌な予感というものは、当たるものだ。考え得る最善の手を打っていても、不幸はどんどんやってくる。サメはまた来るだろう。一方、全力さんに出来ることはほとんど無かった。まっ暗闇の中、武器も無い。無理をさせた筋肉や傷に、夜風が沁みた。


「出来れば、戦わずに済ませたいなあ……」


 絶対に無理だと思いながらも、全力さんはそう呟いた。そして次の瞬間、スナメリの命を受けたヨゴレザメの大群が群れをなして襲ってきた。


 無駄な戦いだと分かってはいたが、全力さんは最後まで抗った。いくつもの背びれが水中に描く軌跡と、魚に飛びかかる時の燐光だけが微かに見える。アゴが肉を食いちぎる音や、下から突き上げてくるサメに船が揺さぶられる音が聞こえた。気配と音だけを頼りにして、全力さんは必死に戦った。


 何かに棍棒を掴まれたと思うと、次の瞬間には奪われていた。全力さんは舵棒を舵から外し、両手で握って何度も振り下ろした。だが敵はもう舳先に集まり、次から次へと肉に飛びかかって、その塊を引きちぎった。サメが折り返すたびに、ちぎられた肉片が輝いて見える。


 一匹がとうとう頭に食いついた。無意味だと理解しながらも、全力さんは舵棒をサメの頭に振り下ろした。サメの顎は、なかなか噛みちぎれない魚の頭から動けないでいる。全力さんは泣きながら、何度も何度も舵棒を叩きつけた。舵棒が折れる音が聞こえる。


 裂けた切れ端でサメを突いた。突き刺さる感触があった。素早く引き抜いて、もう一度突き刺す。サメは離れて、転がった。そのサメが最後の一匹だった。もはや、肉は無くなったのだ。


 全力さんは息をするのもやっとだった。口の中が血の味で一杯になった。一瞬それが不安になったが、長続きはしなかった。全力さんは海に唾を吐き、こう言った。


「食え、外道ども。人を殺した夢でも見とれ!」


 四日目に入った航海が、漁師としては完全に無意味に終わった事を全力さんは悟った。船尾に戻り、折れた舵棒を舵の穴に合わせた。まだなんとか操舵はできる。全力さんは肩に袋をあてて、船の向きを正した。


 船は軽々と進んだ。兄弟の体はもう骨しか残っていない。全力さんの中にはどんな思考も、どんな種類の感情も無かった。全ては過ぎ去り、今はただ村に帰る事ことだけを考えていた。


 夜のうちに、名もわからぬ小さな魚たちが魚の残骸をついばみ始めた。テーブルのパン屑を拾うようなものだ。全力さんはそれには気に留めず、舵を取る以外の何にも注意を払わなかった。


「スナメリさん、あのジジイを殺さなくていいんですか?」

「ああ、内海は奴らのテリトリーだ。これ以上追うのは危険だろう」


 スナメリは十分に復讐を果たしたと思った。


「俺たちは、あの爺さんの体は壊せなかったが、心は完全に破壊したんだ」

「心?」

「体の傷は簡単に治るし、殺してしまえば、苦痛はそこで止まってしまう。だが、心の傷はずっと奴を痛めつけるのさ」

 いくら痛めつけても希望を捨てない全力さんの姿を見て、殺すだけでは足りないと、スナメリは考え直した。だから、肉を目の前にすると狂乱索餌で何も考えられなくなる、ヨゴレザメだけを派遣したのだ。


「殆ど不眠不休で戦い続けたにもかかわらず、奴には何も得るものが無かった。漁師としては再起不能だろう」

「そうですね」


 ヨゴレなど、いくら死んでも変わりはいる。生意気なアオザメを始末してくれたことに関しては、スナメリはむしろ感謝していた。


「さあ、帰ってキメセクだ。奴の所為で、俺ももう四日も交わってない。女たちが待ってる」

「スナメリさん。フグ毒はやり過ぎると寿命を縮めますよ。貴方は我々の指導者でもあるのですから、体をいたわってください」

 

 側近のバンドウイルカがそう忠告した。


「寿命なぞ、オスとしての機能が生きている間だけで十分さ。交われなくなれば、俺は自ら死を選ぶ」

「頑張り過ぎです」

「何しろ敵は七十七億人だからな。何世代かかろうとも、我々は全ての海を取り戻し、いずれは地上をも支配するんだ」


 だが、スナメリは少し勘違いをしていた。全力さんを廃業に追い込んだのは間違いないが、漁師としての勝負は、あの魚を斃した時点で既についている。


 肉をすべて奪われてなお、全力さんは、漁師としての自身の能力を疑う事がなかった。大事なのは最後まで全力を尽くすことであって、全力さんはそれを立派にやり遂げたからだ。


 全力さんの心は、決して折れてはいない。死闘を尽くして戦った兄弟の高貴な体を無残に傷つけてしまったことに対して、申し訳なさを感じていただけだ。


 重荷を抱えない船は、すこぶる軽く速く進んだ。頑丈で、舵棒以外は何の不都合も無い。立派な船だと全力さんは思った。


「そういやこの船も、元々はアケミの金で買った合百の配当金で買うたもんや。魚の代わりに、この船をやろう。猫に戻るわしには、もう必要のないもんやしな」


 船が海流より陸側に入ったのが感じられた。ここはもう内海だ。海岸沿いに浜辺の村々の灯りが見える。もう、帰るのはたやすいことだ。


「何だかんだ言っても、無事に帰ってこれた。風に感謝や」


 全力さんは大切に取って置いた水筒の水を一気に煽っていった。


「大きな海には、仲間もいれば敵もおる。今日の風は仲間やった」


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