全力さんと海

ー大祖国戦争前夜ー
伊集院アケミ
伊集院アケミ

第二十一話「特技」

公開日時: 2021年2月3日(水) 15:58
更新日時: 2024年11月2日(土) 17:16
文字数:3,318

「おはようございます、ご老人。寝ている間に襲うことも可能でしたが、武人としての私の誇りがそれを許しませんでした。さあ、行きますよ!」


 勿論、レイジの言葉は全力さんにはわからない。だが、もの凄い勢いでレイジが船の方に向かっている事だけは、直ぐに分かった。


「シュモクの頭はかなり堅いからな。正面からやり合うんは、得策やない」


 ヨゴレザメの時と同様、全力さんは最初に肉を襲わせ、急所にナイフを叩き込むつもりでいた。だが、レイジは船の手前で一旦深く沈みこむと、全力さんに向けて飛び跳ねたのである。


「なんやねん、われー!」


 丁字型をしたレイジの堅い頭が、全力さんの頬をかすめた。もし正面からぶつかっていたら、即死だったろう。海で顔を傷つけられたのは、本当に久しぶりだ。頬からはドクドクと血があふれ出している。


「やるじゃないですか、ご老人! そうでなくては面白くありません!」


 レイジは再び深く潜り、今度は船底を激しく突き上げた。足元が大きく揺れ、立っている事すらおぼつかない。これはきっと、「自分には船を破壊することも出来る」という意思表示だろう。海に落ちれば、その時点で終わりだ。


「あかん。コイツは肉が目的じゃないんや。わしの命(タマ)を狙うとる」


 正々堂々、真正面からやり合って勝つしかなかった。しかし、あのスピードで飛んでくるシュモクの背中をナイフを突き刺すことができるだろうか? 失敗すればナイフは折れ、成すすべはなくなる。全力さんの額に、一筋の汗がタラリと流れた。


『その気になれば、アイツは船底を破壊する事が出来る。戦わにゃ、僅かな勝利の可能性すら無くなるんや……』


 二度三度、レイジは体当たりを続け、全力さんはそれをギリギリのタイミングで交わし続けていた。だが、体力の有り余っているレイジに比べ、全力さんはここ二日殆ど寝てない。足元はふらつき、全力さんはとうとう、船底に倒れ込んでしまった。


「アイツの急所にナイフをぶちこむのは無理やなぁ……。死んだら、元の世界に戻る話はどうなるんやろ?」


 全力さんは気を取り直して立ち上がった。しかしすぐさま、同じ場所にレイジが飛び込んでくる。全力さんは、再び伏せった。もはや、肉を持って帰るどころの騒ぎではない。死ぬのは別に怖くないが、無駄死にはごめんだ。このまま何も残さずに居なくなったら、アケミが可哀想すぎる。


「諦めちゃダメだよ、全力さん! 頑張って勝たないと!」


 再び事務員さんの声が聞こえた。やはり、この声は幻聴ではないらしい。


「いや、そんな無理やって。いまだって、交わすのが精いっぱいなんや」

「じゃあ、このまま喰われるつもり?」

「そんなことないけど、努力して何とかなることと、ならんことがあるよ」


 だがまだ、全力さんは諦めてはいなかった。勝つのは無理だが、死を覚悟するなら、やれることはある。


「何か手があるの?」

「このままずっと臥せとくんや。奴は焦れて、船底を必ず壊しに来るやろ。その時が最後のチャンスや」

「一体、どうするの?」

「弱ったふりをして・・・・・・。いや、実際に弱っとるけど、最後の力だけは残して、船底が壊された瞬間に、奴の口にナイフを突き立ててやるんや」


 上手く行く保証はどこにもなかった。それに、もし上手く行ったところで、それから先の考えはない。別のサメがやって来れば、それで終わりだ。


「そんなことしたら、村に帰れなくなっちゃうよ!」

「でも、他に手がないんや。良くて相打ちやけどな」

「一つだけあるよ。攻撃と防御を兼ね備えた、素晴らしい手が!」

「一発で仕留めにゃ意味ないんやで? ナイフが折れたら、その相打ちすら狙えなくなるんや」

「全力さん、よく考えて! サメの急所は、口の中や延髄だけじゃないよ!」

「??」

「思い出して! 全力さんが猫だった時に得意だったアレだよ!」


 何か手があるなら、素直に教えてくれればええのになぁと全力さんは思った。昔、一緒に漫才をしていた時も、全力さんがネタを忘れてオタオタしていると、容赦なくハリセンで突っ込まれた。そもそも、まだ猫だった頃の自分に、得意な事なんてあっただろうか?


「今は命がかかっとるんやけどなあ……」


 そう独り言ちた時、全力さんは突然、自分の得意技を思い出した。 


「あっ、あれか!」


 しかし、この手が使えるのは一度きりだ。失敗すれば、次は間違いなく船底を破壊されるだろう。しかし、やるしかない。全力さんはすっくと立ちあがり、レイジの方にナイフを向けて挑発した。


「よし、だいぶ回復したでー! 次こそ絶対に決めたる! はよう、かかってこいやー!」


 レイジは、急に強気になった全力さんの態度を怪しんだ。かといって、このままずっと見守っている訳にもいかない。全力さんが体力を回復してしまえば、アヤが起こる可能性は十分にあるからだ。


 船底を破壊すれば勝てる。だが、それは挑戦から逃げるのと同じ事だ。まだ戦う意思を持つ相手の足場を奪うのは、フェアではない。レイジは、現時点で全力さんの取りうるあらゆる可能性を考えてみた。


『あんなナイフじゃ私の背中は貫けない。注意すべきは眼だが、私の瞳は小さいうえに、距離の離れた両側面についている。同時に貫くのは不可能だ。片目を負傷する覚悟で突っ込めば、必ず殺れる』


 覚悟を決めたレイジは、早く激しく海に潜り、弾丸ライナーの様に全力さんの体めがけて飛び込んだ。だが全力さんは、レイジのその姿をしっかりと見据えていた。


「今や!」


 全力さんはそう叫ぶと、背面から船底に寝転んだ。レイジの体は寸分の狂いもなく、全力さんの体があった場所に飛び込んでゆく。仰向けに寝転んだ全力さんの目の前には、シュモクザメの巨大な白い腹が広がっていた。


「ここなら、何処を刺したって急所や!」


 全力さんは渾身の力を込めて、レイジの腹にナイフを突き立てた。ナイフは跳躍の勢いのままに、レイジの腹をメリメリと音を立てて切り割いてゆく。

 

「グワああああぁあ!!」


 全力さんの目の前に、ハラワタがこぼれ落ちた。痛みに耐えかねてレイジが体をひねると、ナイフは鈍い音を立てて根元から折れる。跳躍の勢いを殺された彼は船べりに激しく体を打ち付け、そのまま海へとずり落ちた。まるで、縦に切り割いた切腹の様だった。


「終わったな」



 背中を床につけ、腹側を見せながら寝そべる。これが、猫だった頃の全力さんの得意技だった。いわゆる、猪木アリ状態だ。全力さんの体は、こぼれ落ちたレイジの臓物と血で真っ赤に染まった。


「おめでとう、全力さん!」

「ありがとな。でも、こんなやり方があるなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに」

「それじゃ、全力さんの誇りを傷つけることになるでしょ? 正々堂々戦おうとした、あのシュモクザメにも失礼だよ」

「そうか、そうやな……」

「さあ、新手が来ないうちに、港に帰りましょう」


 全力さんは船を進めながら、ゆっくりと海中に沈んでいくシュモクの姿を振り返った。全力さんには、何故レイジが肉ではなく、自分の命を狙ったのか、よく分からない。何かきっと、そうせねばならぬ理由があったのだろう。全力さんが、兄弟分のカジキを殺さなければならなかったのと同じように。


「やろうと思えば簡単に殺せたのに、奴は正面からわしの事を叩き潰そうとした。敵ながら、あっぱれな奴やで」


 全力さんは沈んでいくレイジの姿に、同朋意識のようなものを感じていた。彼の体は海の色と紛れ、だんだん小さくなっていく。今日敵を倒したというのに、今はその光景が何だか物悲しくて仕方なかった。


「なかなか強かったで。往生せいよ」


 全力さんは海の水で体を洗うと、再び船尾に座って舵を取った。薄れゆく意識の中で、レイジはこの戦いを振り返った。


「私は卑怯なことをしなかった。あの勇敢な老人と、死力を尽くして戦った。だから、敗れたことに後悔はない。ただ、自分の武術を後世に残せなかったことだけが、本当に残念だ」


 いや、やっぱりそれだけじゃないな。


「ああ、ジンベイのロリっ娘とやりたかったな。次に生まれ変わる時には、少しぐらい弱くてもいいから、イケメンの優男に生まれてこよう」


 正々堂々と戦う。それ自体が慢心であったのかもしれないと悔やみながら、レイジは外洋の海の底に消えた。

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