「わしは自分の力を信じる。人間に何ができるか、どれだけ耐えられるものなのかを、奴に教えたるんや」
奴が眠ってくれたらええ。そうすればわしも少し眠って、また猫だった頃の夢を見られる。
夢……?
「帰ってくれないと、私も困るの。だからあの魚を打ち倒しなさい」
「魚ってなんやっけ?」
「その時になれば、きっと思い出すわ。私の名前はユキ。元の世界に戻れたら、きっとまた会いましょう」
「このことやったんか……」
全力さんは、数日前に見た夢の事を思い出した。全力さん爆弾とか訳の分からぬことも言っていたが、妙にリアリティのある夢だった。あの夢が正夢なら、こいつを斃せば全力さんは元の世界に戻れるはずだ。
それを教えるために、あのユキとか言う妙な女は夢に出て来たんじゃろ?
それにしても、何故わしの夢には昔の事しか出てこんのじゃ?
「考えるな、全力さん」
全力さんは自分に言い聞かせた。
「板にもたれてゆっくり休んで、何も考えんのがええ。こっちは、なるべく動かんようにするんじゃ。そしたら奴は勝手に動いて、体力を減らしよる」
午後になろうとしていたが、船はゆっくりと着実に移動していた。
背中にまわしたロープの痛みは、次第に和らいで楽になっている。
「短いロープにまた餌をつけて、船尾から垂らしといたほうがええかもしれんな。あの魚がもう一晩耐えるつもりなら、また食う必要がある。こがいな時にトビウオが船に飛び込んでくれたら、有難いんじゃがなぁ」
日が傾きだした頃、ロープが再び上がってきた。しかし、魚は少し浅いところを泳ぎ続けるだけで、浮上はしなかった。日の光は全力さんの左腕と肩に、そして背中に当たった。そのおかげで、魚が真北からやや東寄りに針路を変えたことが分かった。
「海流に押されとる。奴も疲れて来よるんや」
疲れているのは全力さんも一緒だったが、やはり嬉しかった。
全力さんは、苦しみながら泳ぐ魚の姿を直ぐに思い描くことができた。
しかし、これだけ潜っとって、どれほど目が見えるんやろか? 昔はわしも、暗うてもよう見えた。全くの暗闇じゃつまらんが、今だって猫の時と同じくらいによう見える。
日に当たり、指をずっと動かしていたので、左手の引きつりはすっかり良くなった。全力さんは負荷を左手に移し始め、背中の筋肉を縮めてロープの痛みを少しずらした。
「魚よ、さっさと楽になれ。いくら逃げたって、わしは絶対に諦めんぞ」
全力さんの士気は高かったが、そろそろ眠気が限界に来ていた。ただでさえ体力を消耗している上に、丸二日ちかく寝てない。何か別のことを考えようとして、全力さんはチャー研のことを考えた。
「チャー研は、人生のリトマス試験紙じゃけんのう」
普通の人間は、チャー研が何か知らない。あのアニメが好きなのは、心を病んだ大きなお友達だけだ。チャー研がなければ生きていけない人生は、絶対に不幸だろう。
「合百もやな。思えば厄介なものばかり、嵌って来たもんや」
全力さんが独り言ちると、目の前に突然アケミが現れた。
「やあ、全力さん」
「アケミ……」
「もう少しじゃないか、頑張りなよ」
「でも、眠くてしょうがないんや」
「じゃあ、アニメの話をしようよ。チャー研でもいいからさ」
アケミとは一昨日の朝に別れた。だから、これは幻覚だ。幻覚だと分かってはいたが、何か話してないと一瞬で寝落ちしそうなので、全力さんは目の前のアケミとお話することにした。
「研の親父は医者じゃったらしいな? 医者らしい事は何もしとらんけど」
「普通にひき逃げしてたしね。でも、あの親父さんは、警視総監と友達で、研を精神病院に送り込んだよ」
「こんなところに、お前を潜り込ませたのは無駄じゃなかったんだな!」
チャー研の数少ない良いところは、正義というものの欺瞞性を、これでもかと言わんばかりに暴きだしたことにある。正義とは所詮、誰かの都合に過ぎないことを、全力さんはチャー研で学んだ。
「医者が病院をこんなところって言ったらいけないよね。まあ、地下でミサイルを作ってたけど」
「全員配置に付け! 攻撃目標はヨーロッパだ!」
「おおざっぱすぎるよ、全力さん」
「わしの夢もこれで終わりか……」
「うん。カタギじゃついてこれなそうだしね」
ついてこれようと来れまいと知った事か。あの魚を釣り上げるためなら、使えるもんは何でも使う。もはや自分が本当にしゃべっているのか、脳内で会話しているのかすら分からなかったが、全力さんはノリノリだった。
「星君を覚えとるか? チャージング♂棒を見せて欲しゅうて、研を人気のない所に誘い込んだんやけど、結局、上手くいかんかったんや」
「GOだよ、全力さん。あれは失敗だったね」
「そもそも、頼み方が良うないねん」
「星君は、活舌が良くないからね」
カツゼツってなんや? なんかの食いもんか?
それはトビウオよりも美味いんか? 腹減ったな。
「僕、絶対しゃぶらないよ。だから、ネ、見せてくれるかい?」
「しゃべらないよだよ、全力さん。それじゃただの変態じゃないか」
「馬鹿にしないでくれ、君のはもっと恰好がいい奴だ!」
「星くん? 『チャージングGO!』は、見せ物でも無いし、そんな無闇に使う事は許されないんDA!」
何やアケミ、今日はめっさノリノリやないか?
ところで、『チャージングGO!』って、なんやっけ?
「もし見られたら、一生の思い出になったのになあ」
「もし見られても、ジュラルは抹殺だよ。全力さん」
「口の利き方がぞんざいになったな」
「閣下の思い過ごしでしょう」
それは別のアニメだ。
「そうや、サメが来たらどうしよ? もしサメが来たら、わしお手上げやん」
全力さんは突然我に返った。どうやら、ほんの数分間ばかり、意識の混乱があったらしい。でも、頭は少しすっきりした感じがした。
「今夜はどんな夜になるんやろか……。少しは眠りたいなあ」
全力さんが独り言ちたその瞬間、一機の飛行機が全力さんの頭上を飛んで行った。その影と音に驚いたトビウオの群れが跳ね上がり、そのうちの何匹かが、船の中に飛び込んできた。
「トビウオやー! これで今日の晩飯はゲットやでー」
全力さんはニコニコしながら、あの魚を多少でも引き寄せることができないか試してみた。しかしロープはびくともせず、切れる寸前まで張りきっている。船はいぜん、ゆっくりと進んでいた。
「あの飛行機に乗ったら、どんな気持ちになるやろなぁ?」
全力さんは飛行機に乗ったことがない。電車もない。車は何度かあるけれど、まだ猫だった頃に病院に連れていかれて、ぶっとい注射を打たれたから、あまり好きではなかった。
あの高さから、海はどう見えるんやろ?
あまり高いところを飛ばなければ、魚が見えるんやないかな?
二百メートルくらいの高さをゆっくり飛んで、上から魚を見てみたいなあ。
全力さんは高いところが好きだった。ウミガメ獲りをしていた頃には海辺に生えている木に良く昇った。そのくらいの高さでも、遮蔽物のない村では、ずいぶん遠くまで見える。そこからだと、シイラは濃い緑色に見えて、泳いでいる群れの全体を見渡せた。
全力さんは舳先のほうへゆっくり戻った。左手を洗って、ズボンで拭く。それから、重いロープを右手から左手へ移し、海で右手を洗った。全力さんは海に沈んでいく太陽と、長いロープの傾きとを眺めていた。
「奴は全く変わらんなあ……」
しかし、水に入れた手の感覚からは、明らかに速度が落ちていることが分かった。
「そうや。オールを二本、船尾に縛りつけとこ。そうすれば、夜の間に更に奴を疲れさせられるはずや」
いや、今はあまり奴を刺激しない方がいいな。今は手を出さないでおいて、日が落ちてからこっそりやるんや。日の沈む時間は、どんな魚でも扱いが難しい。
全力さんは手を風に当てて乾かし、再びロープを握った。できるだけ楽にして船板に寄りかかり、前方に引っ張られるままにした。そうすれば、全力さんにかかっている力の半分かそれ以上を、船に任せることが出来るからだ。やり方が分かってきたなあと思って、全力さんは嬉しくなった。
戦いの終わりはもう近い。
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