暗い色の血の雲が生まれて散っていった時、一匹のサメが深い水の底から浮かび上がってきた。サメはものすごい速さで浮上し、青い水面を割って太陽の下に現れる。そしてまた潜り、血の匂いを手がかりにして、船の航路をなぞって泳ぎ始めた。
それは巨大なアオザメだった。アオザメの体は、この外洋で一番速く泳げるように出来ている。背は青く、腹は銀色に光り、皮は滑らかで、その巨大な顎を除けばメカジキと同様に美しかった。アオザメは水面のすぐ下を高速で泳ぎ、高い背びれは揺らぐことなく水を切り裂いていた。
そのアオザメを遠くから眺めている者があった。メスとまぐわっている最中に全力さんにぶん殴られた、ネズミイルカのスナメリである。彼は復讐の機会を狙って、ずっと全力さんの後を付けていた。そして、二晩にも渡る巨大なカジキとの壮絶な死闘を見たのである。
カジキは打ち倒されてしまったが、既に全力さんは半死半生だっyた。あとひと押しで簡単に殺せる。スナメリはアオザメの協力を得ようと、大海原の中で常に獲物を探っている彼に語り掛けた。
「アオザメ先輩!」
「なんやねん、君いきなりー」
「突然、すみません。僕は大事な友人を失って悲しんでいる、ネズミイルカのスナメリと申します」
「胡散臭いなー。獲物を見失ってカリカリ来とるんやから、何か用事があるなら端的にゆうてもらえる? じゃないと、喰うよ」
「あそこの船を見てください」
話が早いのは、ありがたい事だとスナメリは思った。全力さんは疲労困憊とはいえ、まだ銛を持っている。アオザメに殺ってもらえるなら、それに越したことはない。
「なんだか、デカい獲物を連れとるな」
「そうです。あれが殺された僕の友人です。奮闘二日、死力を尽くすも破れ、今はああやって陸に運ばれているのです。せめて遺体を弔ってあげたい」
スナメリは、全力さんの船をヒレで指さしながら、いけしゃあしゃあとそういった。
「喰うてええの?」
「勿論です。思う存分、食い殺してやってください」
「いや、殺されたカジキの方。もう死んどるなら、そっちの方が楽やん」
「えっ?」
ダメだコイツ。こっちの話を聞いてない。楽に食えるならそっちの方がいいというタイプだ。
「ダメなら今から、君を食うけど。あと君、ぶっちゃけ魚じゃないよね?」
「心は魚です。この広い外洋が大好きです」
「卵から生まれん奴は、信用ならんねん。あと君ら、時々わしらの子供を襲うとるやろ?」
「そ……そんなことしてませんよう!」
本当は見つけ次第、仲間内で性のおもちゃにした後で美味しく頂いていたのだが、スナメリはしらばっくれた。
「ホンマに?」
「ホンマですよ。それにサメ族の中にだって、卵を産まない方々は沢山いるじゃないですか! 今のトレンドは胎生です。卵生とか時代遅れです。産み捨てなんだから、喰われたって自業自得ですよ」
「でも君ら、孕んだら孕んだで、寄ってたかってその母親をレイプしよるやろ?」
「えっ?」
「『産めるモノなら、俺の子を産んでみろ!』とか言うて、仲間うちで散々回した挙句、ヤリ捨てらしいやん。そんで中には、子供ごと食べちゃう変態までおるって。ボク、全部知っとるんよ。何度も相談受けたから」
スナメリは焦った。実は二日前も、悪い仲間たちとフグ毒を決めながらサメを襲ったばかりだったからである。ガンギマリになって同族相手に二回戦しているところを全力さんに見つかり、オールで撃沈されたのであるが、今ここでそれを認めてしまったら、この場で喰われてしまうだろう。
『どうしよう……』
そうだ! 都合の悪いことは全部、俺たちによく似たマイルカのせいにしてしまえ。都合の悪いことは全部、他の種族に押し付けるのが俺たちのルールだ。
「ぷるぷるぷる・・・・・・。僕ら悪いマイルカじゃないよう。善良なネズミイルカだよう」
「そのぷるぷるってなんやねん! こっちは獲物を見失ってイライラしとるねん! 今ここでわしに食われるか、あのカジキを提供するか、どっちかにせえ!」
「先輩こっちです」
スナメリは豹変した。想定とはかなり違う展開だが、あのカジキを奪われそうになれば、ジジイはこのアオザメと必死に戦うだろう。そして、更に消耗する。都合の悪いことは何もなかった。
「あの……好きなだけ食ってもらってかまいませんけど、あのジジイ結構強いんで、気を付けてくださいね」
「大丈夫、大丈夫。奴はもう疲れとるんやろ? もし攻撃してきても、この顎で返り討ちにしたるから」
「わかりました。じゃあ僕、先輩があのカジキを食い終わるまで、他のサメを寄りつかないように見張っときます!」
「なに、スナちゃん。意外と話分かるやん」
「当然ですよ。アオザメさんあっての、外洋の平和ですから」
「そっかー。さっきは脅してごめんね。ちょっとお腹が空いてイライラしてたんだよね。まあ、君の情報がガセネタだったら、君を喰うけどね」
それから数分後。スナメリに導かれたアオザメがカジキの巨体を襲った。アオザメは恐れを知らず、望むものは全て手に入れるサメだ。しかし、全力さんもまた挫けなかった。アオザメが近づいてくるのを冷静に監視しながら、銛をロープにしっかりと結びつけたのである。
「良い事は長続きしないもんやなぁ」
アオザメの口の内側には、八列の歯が鉤爪のように反り返って並んでいる。それは、普通のサメのピラミッド型の歯よりも厄介だった。歯の両側はカミソリのように鋭く、あっという間に大量の肉を食いちぎられてしまうのだ。元々、海の中の全ての魚を食い尽くすために造られた魚だ。海獣の王であるシャチを除けば、匹敵できる敵はいない。
「まあええわ。やるだけやったろ。来てみい、このクソ野郎め!」
カジキの新鮮な匂いを嗅ぎとったアオザメが速度を上げた。しかし、全力さんの心は、サメを撃退する決意にみなぎっている。勿論、本当のクソ野郎はイルカのスナメリなのだが、全力さんはそんなこと知る由もない。
アオザメは素早く船尾に近づき、水面から頭を出した。鋭い歯が『グシャリ』という不気味な音を鳴らして、尾に近い部位にめり込む。全力さんがそれを見逃したのは、銛から意識を逸らせるための罠だった。
「地獄に落ちろぉおおお!」
カジキの肉が引き裂かれる音と同時に、全力さんはサメの頭に銛を打ち下ろした。サメの両目を結ぶ線と、鼻から背中へまっすぐ伸びる線とが交差する一点に、銛が突き刺さる。勿論、実際にそんな線があるわけではないが、その奥には唯一の弱点である脳ミソがあるのだ。全力さんは見事な銛さばきで、その急所を突いたのだった。
「アレ? もしかして、俺死んだ?」
アオザメの胴体が回転する。その目には既に生気が無かった。だが、体の方はまるで死を拒むかのように反射で暴れまわり、引き出されたロープはサメの巨体をぐるぐる巻きにした。その様子はまるで、戦場で致命傷を負ったものの死にきれず、のたうち回る一兵卒のようだった。
サメは仰向けになり、巨大な尾をばたつかせながらモーターボートのように水をかきわけて進む。尾に打たれた水が跳ね、その胴体が水面から飛び出すと、ロープが張りつめブツリと切れた。
「ようやく、くたばったか」
ついに動かなくなったアオザメは、しばらくの間、波間に横たわっていた。全力さんは銛を取り返したかったが、巨大な肉をくくりつけた船は、オールを掻いたくらいではビクともしない。サメはその後、銛と一緒にゆっくりと沈んでいった。早くこの場から立ち去らなければ、別のサメがやって来るだろう。
「あんなに大きいアオザメは初めて見た。デカいのは、随分見てきたはずやが」
全力さんは、あまりカジキを直視したくなかった。尾の部分がアオザメに噛み付かれた時、全力さんはまるで、自分自身が噛み付かれたように感じた。
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