「良い事は長続きしないもんやなぁ」
全力さんは再び独り言ちた。これが夢なら良かった。このカジキと戦うこともなく、ベッドの上で寝ていれば良かったのかもしれない。全力さんは、夢の中で見たユキとの約束を思い返していた。
「大丈夫、帰れるわ」
「ホンマに?」
「帰ってくれないと、私も困るの。だからあの魚を打ち倒しなさい」
「ワシはユキの願い通りに魚を倒した。でも、それを村に持って帰れんかったら、どうなるんやろ? いや、逆かもしれんな」
勝負は全力さんの勝ちだった。それで満足するべきで、体まで持ち帰ろうというのは贅沢だったのかもしれない。サメはきっと、またやって来るだろう。今の全力さんには銛すらない。だが、ここに至っても、全力さんの気力は萎えていなかった。
「人間は負けるようには造られとりゃせん。絶望に打ちひしがれる事はあっても、この心臓が動いとる限り、負けるこたぁないんじゃ!」
考えるな、全力さん。自分の決めた通りに進めばいい。サメが来たら来たで、それはその時のことだ。だが、あのアオザメの脳天に銛をぶち込んだのは、本当に正しかったんやろうか?
「もしかしたら、無益な殺生を紫檀かもしれんなあ」
全力さんは一瞬、自分の行為に疑問を感じた。だが、正々堂々勝ち取ったものを横から奪おうとする輩に対して、慈悲など必要ないはずだ。肉を持ち帰ることが約束の中に含まれていないからって、それを奪われる道理はない。
「戦いの成果を横から奪おうとしたアオザメは、殺されても文句は言えん。わしは一五〇連敗の最低のメンタルの中、不眠不休で戦って、あのカジキに勝ったんやからな」
そう独り言ちた瞬間、頭の中で事務員さんの声が聞こえた。元の世界で、全力さんの相方だった女性だ。
「全力さん、もっと気軽に考えようよ」
「その声、もしかして、ひーちゃんか?」
「久しぶりだね、全力さん。夢の中でずっと見てたよ」
「じゃあ、この声は幻覚じゃないんやな」
「そうだね。こっちもまさか、全力さんが人間になってるだなんて、思いもしなかった」
そう言って、事務員さんは笑った。
「諦めちゃダメだよ、全力さん。そのお魚を持って村に戻るんでしょ?」
「でも、またサメが来る。もう武器が無いんや」
「なければ、作ればいい」
「作る?」
「全力さんは、今までどうやって仕掛けを作ってたの?」
「どうって、ナイフ……。あっ!」
「ね? まだ武器はあるじゃない」
「そうやな。オールの柄にナイフを括りつければ、銛になる。まだ戦えるわ」
全力さんはその作業を、脇の下に舵棒を挟みながら進めた。帆の端に繋がれた帆綱は、足で踏んで押さえている。こうしてる間にも、船は村に近づいてる。風は強くなり、船は良く走った。尾は少し齧られたが、上半身はまだ綺麗だ。
「アオザメに齧られた分、船も軽くなったでしょ?」
「せやなあ。ひーちゃんは、いつだって前向きや」
事務員さんの声を聴いて、全力さんには希望が蘇ってきた。夢を見るのに、お金はいらない。どんな過酷な状況であっても、絶望に打ちひしがれるのは愚かなことだ。下を向いて泣いてる暇があったら、一歩でも前に進むのだ。
「さあ、オワコンの復活だ。だが、丸腰やないぞ!」
全力さんは、罪については何も知らなかった。他に知ってることもあまりない。カリカリが何で出来ているのか考えたこともなかった。カリカリとおひねりだけが、全力さんの知る食べ物の全てで、それさえあれば幸せだったのだ。
「時々、ヴァルダが刺身を勧めてくれたが、『なんか、ヌチョっとしてるからいいです』って断っとったなー」
「今じゃ、なんでも食べるようになったんだね。全力さん」
「ああ、昔は血を見るのさえ嫌じゃったというのにな」
猫だった頃の全力さんはヘタレで、全力で戦ってコオロギと五分だった。ヤドカリにコテンパンにのされたこともある。そんな全力さんが人間に生まれ変わって、巨大なカジキを斃した。それだけで立派なことだ。
「わしがアイツを殺したのは罪なんじゃろう? だがそれは、自分が生きるためじゃない。それでも、罪なんかな?」
「多分、そうだね」
「でも、それじゃあ全てが罪や。罪を罪だと自覚しとらん奴をいじめて、何になるんやろ? わしがあの魚を殺したんは、肉を売るためじゃない。漁師としてのプライドを賭けて殺したんや。信じてくれるか?」
「信じるよ。それに、元に世界に戻らなくちゃいけないもんね」
「そうや。元の世界に戻るなら、ちゃんとけじめを付けにゃあいけんと思うた。だから、わしは戦うたんじゃ」
「そうだね。だから全力さんは、あのカジキを殺した。それだけの話だよ」
罪を犯せば、必ず報いがある。でも、それで救われる人が沢山居るなら、やらなきゃいけない。全力さんはそう考えていた。
「最初はアイツが憎かった。だけど、いつしか愛しとった。わし以外の人間に、あいつを殺れとうない。本当に愛しとるなら、殺すことだって罪やないんや。違うか、ひーちゃん?」
「私にはわからないな。愛のために殺すのは、もしかしたら、金のために殺すことより重い罪かも知れない」
「そうやとしても、アイツを殺したことに後悔はない」
事務員さんは昔から、正しいとか正しくないという事を言わない人だった。彼女は爆弾作りの天才で、それは誰が見ても悪い事だったからだ。だけど事務員は、人を殺すために爆弾を作ってた訳じゃない。彼女にはそれを作る天賦の才があり、爆発の中に美しさを見出したから作ったのだ。そして不幸にも、それを求める人間が周りにいた。
「あいつは美しゅうて、気高くて、恐れを知らん奴やった。だから、わしは殺しとう思ったんじゃ。他の奴らには絶対に殺れとうない。美しいものを守りたいと思うのは、人の本能やろ?」
「その通りだよ、全力さん。だけど今では、その理屈の分かる人は少なくなったんだよね」
「あいつはわしの兄弟じゃ。神様ならともかく、人にその行為をとがめられる謂れはない。善悪なんて、立場の違いにすぎんのじゃ。人が決められるのは、自分が何を愛するかだけや」
罪のことなど考えるな! もうずいぶん手遅れだ。なにより、全力さんにとっての神様は、えっちゃんの残したあの教えと『なにくそ精神』だけだった。何を愛するべきかすらわからない人間が、善悪を決められるはずがないではないか!
「わからんのは、あのサメを殺した時や。奴の脳天に銛を突き刺した時、わしは喜んどった。まんまと罠に嵌りおったってな……」
まだウミガメ獲りをしていた頃、全力さん家に帰ると暇で仕方なかったので、どんな些細な事でも、突き詰めて考える癖がついた。感覚とは理性と反発するものではなく、それを突き詰めた先に手に入る何かだと、全力さんは考えていた。その考えのもとに、罫線引きに没頭した。
「全力さんは、自分の大切なものを守るために殺した。それだけだよ」
「でも、快感のために殺すのは悪い事やないの?」
「破壊に快感が伴うのは、仕方のないことだよ。出来るのは、その事実を受け入れるか、否定するかだけ」
「そうやな。リア充のイルカをぶん殴った時も、スッキリしたんや。やけど昔、つがいのカジキを殺した時には、ひどく心が痛んだ。アケミもきっと、同じ気持ちやったと思う。訳がわからん」
全力さんは船べりから手を伸ばして、サメが囓った周辺の肉を少し食べた。肉は締まっていて汁気が多く、牛肉のようだが赤身ではない。市場にもっていけば、最高の値段がつくだろう。
「うまいなあ。サメが食いたがるのも良く分かるわ」
「でも全力さんは、肉が欲しくてあの魚を斃したんじゃないよね?」
「勿論や。なんでこの肉を持ち帰らなあかんのか、ようわからん」
「どんなに上等であろうと、サメにとってはただの肉の塊。だけど、全力さんやアケミ少年にとってはそうじゃない。結局は、そういう事なんじゃないかしら?」
「せやなあ」
「分かる人には何も言わなくてもわかるし、分からない人には言葉を尽くしても分からない。そういう事が、この世には沢山あるんだよ」
そこまでいうと、事務員さんの声は聞こえなくなった。全力さんには、言ってる事が良くわからない。だけど、彼女が正しいことを言ってることだけは、理解できた。
「色々理屈を付けとるけど、わしはやっぱり、アケミに褒めてもらいたいんじゃろうな。だから、こんなに必死になっとるんや。わしはアケミを、この世界に置いていくっちゅーのに」
全力さんは、自分が何をしたいのか、良く分からなくなってしまった。確かなことは、自分が元の世界に変える運命にあることだけだ。そしてその前に、アケミに何かを残さなければならない。
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