時代劇が好きだったから、転生を司る神様が気を遣ってくれたのかもしれない。
士農工商という旧弊的身分制度が根付き、味噌と醤油と緑茶の香りが漂い、着物姿の人々が往来を行き交っている。
それがヒノヤマ藩だ。
文明開化の足音はまだ聞こえない。
〇
せんべい長屋のある「寒ツバキ町」は町人、職人、商人が入り混じって暮らす庶民の町だ。
文ノ助とおはつがツワブキ屋を出立して、せんべい長屋に到着した時、時刻はすでに午後を回っていた。
表通りから脇道に入り、木戸をくぐると、住人共有の空き地とと年季の入った井戸、大家宅がある。
その先には狭い路地が真っ直ぐ伸びていて、二棟の六軒長屋が向かい合って建っている。
いずれも間取りは一般的な九尺二間《くしゃくにけん》。
小さな台所のついた土間と四畳半の座敷だけで、他には何もない。板葺《いたぶ》き屋根にはごろごろと石が載せてある。
ちなみに店賃《たなちん》はひと月で四百文。大体一万円ぐらいだ。
二棟ある六軒長屋のうち、東側の奥から三番目の部屋が、文ノ助とおはつの家だ。
ここで今日から夫婦者《めもともの》として暮らすことになる。あくまで暫定的な関係なので、祝言は挙げていない(もとよりそんな金も時間もなかった)。
大家さん同伴のもと、二人は在宅中のご近所さんたちに挨拶して回った。
その後は盥《たらい》と雑巾を借り、新居の掃除をはじめた。
「竈が煤《すす》汚れで真っ黒なままだと悪いモノが湧きますから」
おはつは特に竈《かまど》の掃除に熱心だった。ツワブキ屋の女将からそう教わったらしい。
昨日の今日なのに、何事もなかったような立ち居振る舞いが、健気でいじらしかった。
掃除の次は買い出しだ。
長屋暮らしに必要な道具類は古道具屋で買い揃えた。
井戸水を溜めておくための水瓶。まな板、包丁、土鍋などの調理器具。
茶碗や箸などが入った箱膳を二人分。衣類収納箱の行李《こうり》。箱行灯《はこあんどん》。
これからどんどん寒くなるので火鉢は必需品。素焼きの丸火鉢を一つ。
敷布団と夜具《やぐ》、綿詰め半纏《はんてん》も買わなくてはならない。
いくら浪人とはいえ、侍が荷物持ちになっているので、通りゆく人々が奇異な視線を文ノ助に送っていた。
〇
とっぷりと日が暮れると、せんべい長屋に静寂が訪れた。
文ノ助は青さを取り戻した四畳半に座った。
くつろいでいると、おはつが火鉢に鉄瓶《てつびん》を置いて湯を沸かし、お茶を淹れてくれた。
温かいお茶の香りが四畳半の小座敷に広がる。やっとこさ、ひと心地ついた気がする。
「どうぞ」
おはつが両手で包むように湯呑みを持ち、文ノ助に差し出した。
礼を言い、湯呑みを受け取ろうとした時、わずかに指先が触れた。おはつの手がビクッと震えた。
「す、すみません」
おはつが目を伏せながら詫びた。
それを見た文ノ助は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
やはり別々に部屋を借りるべきだった。
仮初《かりそ》め夫婦は黙りこくったままお茶を口にした。気まずい静けさは湯飲みが空になるまで続いた。
行灯の油がもったいないので、今夜はもう床につくことにした。
しかしここで、両人は私事領域《プライバシー》皆無問題に直面する。
部屋が一つしかないので、当然ながら分かれて就寝することはできない。そこで文ノ助は布団と布団の間に枕屏風《まくらびょうぶ》を置いて、仕切り代わりとした。
苦肉の策だが、これで少しはおはつも安心できるだろう。
「……文ノ助さん」おはつがほろ苦い顔を浮かべた。
「ん?」
「そ、その……」
おはつの唇がかすかに動いた。けれど、その小ぶりな唇から言葉は出てこなかった。
〇
行灯の火を消し、仮初め夫婦は床につくことにした。
薄い敷布団に横たわり、縫い目の目立つ夜着《やぎ》にくるまる。
案の定、文ノ助はなかなか寝付けなかった。
昨日の一件で、実家とも無津呂家とも大きな禍根を残す結果となったが後悔はない。
一方、気がかりは明日から始まる暮らしだ。なんの見通しも立っていない。はたしてうまくやっていけるだろうか……。
――おはつとは夫婦者として暮らすとよろしい。無論、形だけで結構ですので。
――おや? 先程おはつを守るとおっしゃいましたよね? よもや武士に二言はありますまいな?
――あなたと一つ屋根の生活がどうしても嫌になったら、おはつは縁切り寺に駆け込むでしょう。そうならないように励むことです。
哲五郎《てつごろう》にうまく丸め込まれてしまったが、本当にこれでよかったのかと考えてしまう。
多分おはつは主人の指示だから俺についてきただけ。他に選択肢があればそちらを選んだはすだ。
今のところおはつは不平不満を口にしていない。けれど胸の内まではわからない。ただ本当の気持ちを押し殺しているだけかもしれない。
無津呂に無体を仕掛けられたおはつは侍そのものにトラウマを抱いたことだろう。その後の雪畑家の心無い対応にも失望したはずだ。
浪々の身だが、俺もまごうことなき「侍」。そばにいると、おはつに辛い記憶を想起させかねない。
やるせない思いがひしひしと胸を締め付けた。
「……文ノ助さん、まだ起きていらっしゃいますか?」
一人で悶々としていると、枕屏風の向こうからおはつが声をかけてきた。
「あ、うん」
「わたしもなかなか寝付けなくて……」
「そ、そっか。実は俺もなんだ。枕が変わったせいかな? あはは」
二人は枕屏風越しに他人行儀な会話を交えた。
「……」
「……」
「なぁ、おはつ」
「はい?」
「おはつには申し訳なく思っている。本来なら今夜もツワブキ屋の奉公人部屋で休めたはずなのに……。俺のような食い詰め浪人と長屋暮らしをする羽目になってしまった。まったくもって不甲斐ない限りだ」
「……そのように思っていらしたのですか?」
「うん……。明日からの暮らしだけど、いろいろ苦労をかけてしまうと思う」
「……」
枕屏風の向こうで気配が動く。
布団から出たおはつが枕屏風の前で正座になった。仕切りの向こうにいる文ノ助に話しかける。
「わたしはこぢんまりとした長屋にも、ご浪人になった文ノ助さんにも特に不満はございません。苦労をかけるとおっしゃいましたが、文ノ助さんとでしたら、ひとつ苦労してみたいです。……わたしがそう思っているだけではいけませんか?」
思いがけない言葉だった。文ノ助はがばっと上体を起こし、枕屏風に顔を向けた。
「でも、さっき湯飲みを受け取った時、指が……」
震えていた。だから、文ノ助と夜を共に過ごすのが不安なのだと思った。
「ごめんなさい。あれは緊張していたからでございます。男の人と同じ部屋で寝るなんて初めてで……。でも不安はございません。お隣にいるのは文ノ助さんですのもの」
「おはつ……」
「文ノ助さんはわたしの姿が見えると眠れませんか?」
「いやいや違う。ここに枕屏風を置いたのはその……プライバシーのためというか……」
「ぷ、ぷらい……ばし?」
「ああ、すまない。面妖な言葉を口走ってしまった」
文ノ助は苦笑した。
先程までの気まずさが緩やかにほどけていく気がした。
どうやら俺の気遣いは空回っていたようだ。おはつ殿は「仕切り」など望んでいなかった。
「こいつはどかすよ」
布団から出た文ノ助は枕屏風を本来あるべき部屋の隅に戻した。野暮な仕切りがなくなる。おはつが布団の上で行儀よく正座していた。
「不束者《ふつつかもの》ですが、よろしくお願いいたします」
おはつが座ったままお辞儀をした。文ノ助も正座になって深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
律義者の二人は本物の夫婦のように初夜の挨拶を交わた。
横になって向き合えば自然と目が合う。
文ノ助が黒目がちの瞳をじっと見つめていると、おはつが、はにかむように微笑んだ。
「おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
それから四半刻《しはんこく》もしないうちに、隣から小さな寝息が聞こえてきた。すやすやと眠りこけるおはつを眺めていると、文ノ助も眠くなってきた。
仮初め夫婦がはじめて共に過ごす夜は、何事もなく更けていった。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
<あとがき>
雪畑邸に奉公していた時のおはつは主人公を「雪畑様」と敬称で呼んでいましたが、せんべい長屋に引っ越してからは、名前にさん付けで呼んでいます。
夫婦者の体裁をとるためでもありますが、主人公が様付けを「性に合わない」拒んだのも理由の一つです。
<あとがき>
雪畑邸に奉公していた時のおはつは主人公を「雪畑様」と敬称で呼んでいましたが、せんべい長屋に引っ越してからは、名前にさん付けで呼んでいます。
夫婦者の体裁をとるためでもありますが、主人公が様付けを「性に合わない」拒んだのも理由の一つです。
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