立て付けの悪い障子戸をガタゴトと鳴らしながら開ける。障子戸の向こうは手狭な空間になっていた。
小さな台所付きの土間と四畳半の小座敷。
備え付けの家具はなく、ささくれた畳が敷いてあるだけ。押し入れすらない。
九尺二間(間口が約2.7メートル)・奥行が約3.6メートル)の裏長屋だ。
予想はしていたが、本当に狭いな。
雪畑文ノ助はかぶっていた編み笠を取り、敷居を跨いだ。古びた木の匂いが鼻をかすめる。
ふと前世の記憶が――上京して木造のワンルームアパートに入居した時の記憶が文ノ助の脳裏をよぎった。まだあちらのほうが電気ガス水道ネット回線があるぶん、ずっと快適だろう。
しかしこちらの世界――ヒノヤマ藩ではそうもいかない。
文ノ助の少し後ろに、線の細い娘さんが立っている。その娘もまた文ノ助と同じように、空っぽの四畳半を見つめていた。
「こぢんまりとしておりますね」
それが新居を目の当たりにしたおはつの最初の感想だった。
今日から文ノ助は、このないない尽くしの裏長屋で、のちの嫁となる娘さんと一緒に暮らすことになる。
〇
文ノ助は雪畑家の次男である。
これは「お武家」によくある話なのだが、家督を継ぐ長男は優遇される反面、次男三男は「冷や飯食い」と呼ばれ、おざなりな扱いを受ける。
雪畑家も例に漏れず、兄弟は格差をつけて育てられた。実家なのに肩身が狭く、文ノ助は漠然とした疎外感を抱えながら暮らしていた。
雪畑家の兄弟は同じ町内の剣術道場に通っていた。
こういう場所には大概、自分の才能を誇示したいがために、横暴な振る舞いをする輩がいる。
「よぉ、雪畑の次男坊。俺が稽古をつけてやろう」
道場の跡取り息子、無津呂白茂はまさにそういう男だった。
落ちこぼれの文ノ助は、たびたび無津呂の標的にされた。打ち込み稽古の際、瘤や痣ができるまで滅多打ちにされることが、しばしばあった。
事なかれ気質の兄は見て見ぬフリだった。
道場へ行く日は憂鬱で仕方なかった。父が「世間体第一」の人だったので、勝手に道場を辞めることは許されなかった。
「相変わらず笑いたくなるぐらい弱いな。我が道場にお前のような弱者がいるのは恥でしかない」
荒稽古の後、無津呂が吐き捨てるように言った。
夜郎自大な乱暴者ゆえ、当然のごとく素行はよくない。どこそこの居酒屋で酔って暴れたとか、町人を恐喝して金を巻き上げたとか、悪い噂が絶えない。
しかも無津呂はそうした悪行の数々を、まるで武勇伝のように取り巻きたちに語っていた。周囲から将来は凄腕の剣客になると期待されているが、文ノ助からすれば、ただのゴロツキだ。
文ノ助は剣の腕こそ、からっきしだが、文字の読み書きは達者だった。そのため自邸では、写本作りの内職に励むことが多かった。
出来上がった写本を勧進元の貸本屋「ツワブキ屋」に納品すれば、いくらかの収入になった。
いずれ兄が当主になった時、文ノ助は屋敷を追い出されるだろう。その時は家賃の安い長屋にでも移り住み、気ままな浪人暮らしをはじめようと考えていた。無論、無津呂のいる剣術道場とも縁切りだ。
生きる上で最も辛いのは自分の居場所が見つからないことだ。しかしそれでも一人で生きていかねばならないのが「侍」だ。
ずっとそう思っていた。
〇
文ノ助が十と九つになった年、雪畑家で働いていた女中が「良縁に恵まれたのでお暇を頂きたく存じます」と申し出て屋敷を去った。
ツワブキ屋の店主、哲五郎にその話をすると、親切にも自分の店の女中を一人周旋してくれた。
「ですがずっと奉公させるつもりはありません。あくまで臨時の手伝いです。できるだけ早く雪畑様のほうで新しい小間使いを雇ってください」
文之助にとって哲五郎は冷や飯食いの自分を見くびることなく、内職の請負人になってくれた恩人だ。
そんな哲五朗の計らいで雪畑邸にやってきたのがおはつだった。
年は十と七つ。五尺(約151センチ)そこそこと小柄で、気立ての温和しい娘だった。屋敷うちのどこでも、てきぱきと働く姿が見て取れた。そばを通ると何だか良い匂いがした。
おはつは住み込みではなく通いの女中だ。毎朝雪畑邸まで足を運び、夕方になるとツワブキ屋へ帰っていく。
勝手口の戸を開けて、おはつを屋敷内に入れるのは文ノ助の役目だった。また日が暮れてからの一人歩きは危ないと思い、おはつがツワブキ屋に帰る時は付き添うにしていた。
おはつは地味な色目の着物に、霞文様の帯を締めていた。「霞」は春の季節感を表す柄である。今はまだ秋の暮れだ。
「季節外れなのはわかっておりますが、これから冷え込みが増すので、帯だけでも春めいたものがいいかと思いまして……。変でしょうか?」
「いや、全然そんなことない。……似合ってると思う」
「ありがとうございます」
おはつがふわりと微笑んだ。
散歩がてらの道すがら、おはつとの他愛ない会話が、不遇をかこつ暮らしのささやかな癒しだった。
文ノ助は自分でも気づかぬうちにおはつに惹かれていた。
しかし冷や飯食いの自分なんぞに告白されても迷惑なだけだろう。
うだつの上がらぬサンピン侍でも、恋心を忍ぶくらいの芸当はできる。
〇
おはつの身に災難が降りかかったのは、雪畑家に女中奉公して三ヵ月後のことだった。
〇
ヒノヤマ藩は立冬を迎えた。
その日も文ノ助はいつものようにおはつが来るのを待っていた。しかし定刻になっても彼女は姿を現さなかった。
こんなこと今まで一度もなかった。
胸騒ぎを覚えた文ノ助はおはつを迎えに行った。ツワブキ屋までの道を歩いていたら、どこかで鉢合うはずだ。
まだ早朝のため往来に人影はない。
しばらく歩いて板塀と藪が連なる小道に差し掛かった時、なにやら争ったような形跡を見つけた。
昨日の雨でぬかるんだ地面に、三人分の足跡が不自然に入り乱れていた。そばにはおはつのものと思わしき草履が片方脱げ落ちていた。それは一目で悪い出来事を予感させる光景だった。
まさか……。でも、これは……。
「拐かし」が起きたとし考えられない。
件の足跡は藪の奥の竹林に続いていた。文ノ助は足跡をたどって走った。
かすかに聞こえる男の太い笑い声と、女の細い泣き声。
薄暗い竹林の奥へ進むにつれて揉め事の気配が強まっていく。
見つけた。
派手な羽織をまとった若侍が小柄な町娘に馬乗りになっていた。狼藉者はもう一人いて、娘の足を押さえつけていた。
おはつは今まさに身ぐるみを剥がされかけていた。
無津呂白茂はだしぬけに現れた文ノ助に気付くと、おはつから奪い取った帯を投げ捨て、脱兎の勢いで逃げ出した。
腰巾着の男も後を追う。
文ノ助は急いでおはつに駆け寄り、彼女を抱き起した。
血の気を失った細面、その左側の頬が赤紫色に腫れていた。無津呂に殴られたのだ。
あいつ……アイツ……あの野郎!
腸が煮えくり返るような怒りが込み上げてきた。
文ノ助は無津呂たちの後を追った。
〇
冷たく乾いた風が周囲の竹藪をざわざわと揺らしている。
文ノ助は竹に囲まれた荒れ地で、無津呂とその腰巾着の男と相対した。
「無津呂殿、こいつは雪畑の次男坊ですぞ」
取り巻きの男が文ノ助を指さした。
「なんだお前だったのか。つい逃げてしまったが、その必要はなかったな。ん? なんだ、その目は? もしや怒っているのか?」
無津呂が鼻で笑った。狼藉を働いた連中に悪びれる様子は皆無だった。
激昂した文ノ助は無津呂に殴りかかるも、簡単に避けられてしまう。
「口の利き方がなってないぞ。落ちこぼれの分際で」
すぐさま反撃の鉄拳が飛んできた。
文ノ助は無津呂に頬を殴打され、枯れ葉の積もった地面に転倒した。
「威勢よく挑んできたと思えば、この様よ。いいところであったのに出しゃばるでないわ!」
無津呂が文ノ助を何度も蹴りつけた。腹部が鈍く痛み、口の中に不快な鉄の味が広がった。
「いやはや、まったくその通りでございますな。雪畑の冷や飯食いよ! 無津呂殿は貴様なんぞよりも身分も実力も格上なのだ! わかったら、さっさと立ち去れ!」
遠巻きに見ている腰巾着が文ノ助を罵った。
「だ、黙れ……」
文ノ助は引かなかった。なんとしてもこの狼藉者をぶちのめし、おはつに詫びさせなくてはならない。
「ゆるさ……ぬ……ムツロ……おまえは……絶対にっ!」
「おい、こやつは何と言っておるのだ?」
「俺は生きる価値のないゴミクズです、と申しておりますな」
「はははっ、左様か。まさにその通りよ」
無津呂と取り巻きが揃って、耳障りな笑い声を上げた。
「はぁ……はぁ……」
文ノ助はよろよろと立ち上がった。
視界が霞む。骨が軋む。手足が鉛のように重い。
ボロボロになりながらも文ノ助は無津呂に挑んだ。余裕綽々だった無津呂たちも、次第に文ノ助の気迫を不気味に思いはじめた。
「ええい、虫の息のくせにしつこいぞ! いい加減地べたを舐めてろ! 雑魚が!」
鬱陶しそうに怒鳴った無津呂が抜刀した。文ノ助も刀の柄に手をかけた。
「おいおい忘れたのか? 貴様は道場で一度たりとも無津呂殿に勝てなかったのだぞ!」
取り巻きの男が煽る立てるように言った。
悔しいがその通りだった。試合用の木剣で勝てないのだから、真剣で勝てるはずもない。剣の才覚は間違いなく、無津呂のほうが上だ。
しかし……。
それでも……。
ここで引くわけにはいかなかった。
文ノ助も刀を構えた。
「前々から生身の人間で試し斬りがしたいと思っていたのだ。丁度いい。俺が雪畑家の枝落としをしてやろうぞ!」
無津呂が猛然と斬りかかってきた。満身創痍の文ノ助は反応できない。
「くたばりやがれ!」
袈裟斬りにされかけた瞬間、文ノ助の脳裏を走馬灯が駆け巡った。
刹那、文ノ助は前世の記憶を思い出した。
自分が「異世界転生者」であることを自覚すると、いまだかつてないほど身体が速く動いた。
文ノ助は本来なら不可避であるはずの斬撃を紙一重で躱した。そして空を切った無津呂の剣を側面から薙ぎ払うように一閃。
鋭く短い金属音。飛び散る火花。
無津呂の刀が真っ二つに折れた。
「はっ? えっ?」
無津呂は状況が理解できず、目を白黒させる。折れた刃がひゅんひゅんと弧を描き、地面に突き立った。
「か、刀が……俺の刀が……」
無津呂がどすんと尻もちをついた。ゆらりと文ノ助は前進する。
「ひっ! く、来るな!」
「よくも……おはつを殴ったな……」
「あ、あの娘のことか? いいか! 俺の誘いを断ったから、あの娘はあんな目に遭ったんだ!。わかるか? つまりは本人の因果だ!」
無津呂が半べそ顔で叫んだ。
「ならばお前がこれから斬られるのも、お前が招いた因果だ」
「ば、馬鹿な真似はよせ! 来るでない! 来るな!」
「身から出た錆だ。身をもって償え」
文ノ助は殺意をたぎらせながらそう言うと、刀を上段に構えた。
人を斬るのは初めてだが、なぜだろう? 一刀のもとに瞬殺できる確信があった。
いざ狼藉者に引導をわたそうとした瞬間、背後から足音が聞こえた。振り向くと身繕いをしたおはつが、ほうほうの体でこちらに走ってきた。
「おやめください!」
おはつが文ノ助の腰に、ひしとしがみついた。
「止めないでくれ。こいつは……こいつだけは……」
文ノ助はおはつの手を振り払おうとした。それでもおはつは「おやめください!」と涙ながらに訴えた。
この時の文ノ助は完全に人斬りの顔になっていた。おはつは凶行に走りかけた文ノ助を必死になって止めたのだ。
「すまない……」
おはつの涙が文ノ助の「殺意という刀」の鞘になった。
少しの間、沈黙が落ちる。おはつが体を離した。
刀を鞘に戻した後、文ノ助は渾身の力を込めて無津呂の顔面を殴った。
浅ましき狼藉者は仰向けに倒れ、白目を剥いて気絶した。もはや見損なう価値すらない醜態だ。
「今はこれで手討ちにしておいてやる。……おい」
文ノ助は棒立ちになっている取り巻きの男に目を向けた。「ひいいい!」と情けない悲鳴が上がる。
「お前は、このゴミクズ野郎の後片付けだ。わかったら、とっとと失せろ。金輪際おはつに近付くな」
それだけ言い捨てると、文ノ助はおはつを背負い、急ぎツワブキ屋まで走った。
〇当作品の異世界転生者の設定
一度死んだ人間が「転生」すると、その世界では尋常ならざる身体能力を発揮します。
悪党に斬殺されかけたことで、主人公は異世界転生者として覚醒し、孤独な社会人であった頃の記憶と、ずば抜けた身体能力を取り戻すことができました。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!