うらぶれた六畳一間の裏長屋で、健気なお嫁さんとねんごろに暮らします候(そうろう)

ご近所さん曰くあの夫婦はときめきの注目株
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壱話 「おやめください」

公開日時: 2021年9月24日(金) 21:00
文字数:4,832

 立て付けの悪い障子戸をガタゴトと鳴らしながら開ける。障子戸の向こうは手狭な空間になっていた。

 小さな台所付きの土間と四畳半の小座敷。

 備え付けの家具はなく、ささくれた畳が敷いてあるだけ。押し入れすらない。

 九尺二間くしゃくにけん(間口が約2.7メートル)・奥行が約3.6メートル)の裏長屋だ。


 予想はしていたが、本当に狭いな。


 雪畑ゆきばた文ノ助ぶんのすけはかぶっていた編み笠を取り、敷居を跨いだ。古びた木の匂いが鼻をかすめる。

 ふと前世の記憶が――上京して木造のワンルームアパートに入居した時の記憶が文ノ助の脳裏をよぎった。まだあちらのほうが電気ガス水道ネット回線があるぶん、ずっと快適だろう。

 しかしこちらの世界――ヒノヤマ藩ではそうもいかない。


 文ノ助の少し後ろに、線の細い娘さんが立っている。その娘もまた文ノ助と同じように、空っぽの四畳半を見つめていた。


「こぢんまりとしておりますね」


 それが新居を目の当たりにしたの最初の感想だった。

 今日から文ノ助は、このないない尽くしの裏長屋で、のちの嫁となる娘さんと一緒に暮らすことになる。


 〇


 文ノ助は雪畑家の次男である。

 これは「お武家」によくある話なのだが、家督を継ぐ長男は優遇される反面、次男三男は「冷や飯食い」と呼ばれ、おざなりな扱いを受ける。

 雪畑家も例に漏れず、兄弟は格差をつけて育てられた。実家なのに肩身が狭く、文ノ助は漠然とした疎外感を抱えながら暮らしていた。


 雪畑家の兄弟は同じ町内の剣術道場に通っていた。

 こういう場所には大概、自分の才能を誇示したいがために、横暴な振る舞いをする輩がいる。


「よぉ、雪畑の次男坊。俺が稽古をつけてやろう」


 道場の跡取り息子、無津呂むつろ白茂はくしげはまさにそういう男だった。

 落ちこぼれの文ノ助は、たびたび無津呂の標的にされた。打ち込み稽古の際、瘤や痣ができるまで滅多打ちにされることが、しばしばあった。

 事なかれ気質の兄は見て見ぬフリだった。

 道場へ行く日は憂鬱で仕方なかった。父が「世間体第一」の人だったので、勝手に道場を辞めることは許されなかった。


「相変わらず笑いたくなるぐらい弱いな。我が道場にお前のような弱者がいるのは恥でしかない」


 荒稽古の後、無津呂が吐き捨てるように言った。

 夜郎自大やろうじだいな乱暴者ゆえ、当然のごとく素行はよくない。どこそこの居酒屋で酔って暴れたとか、町人を恐喝して金を巻き上げたとか、悪い噂が絶えない。

 しかも無津呂はそうした悪行の数々を、まるで武勇伝のように取り巻きたちに語っていた。周囲から将来は凄腕の剣客になると期待されているが、文ノ助からすれば、ただのゴロツキだ。


 文ノ助は剣の腕こそ、からっきしだが、文字の読み書きは達者だった。そのため自邸では、写本作りの内職に励むことが多かった。

 出来上がった写本を勧進元かんじんもとの貸本屋「ツワブキ屋」に納品すれば、いくらかの収入になった。

 いずれ兄が当主になった時、文ノ助は屋敷を追い出されるだろう。その時は家賃の安い長屋にでも移り住み、気ままな浪人暮らしをはじめようと考えていた。無論、無津呂のいる剣術道場とも縁切りだ。


 生きる上で最も辛いのは自分の居場所が見つからないことだ。しかしそれでも一人で生きていかねばならないのが「侍」だ。

 ずっとそう思っていた。


 〇


 文ノ助が十と九つになった年、雪畑家で働いていた女中が「良縁に恵まれたのでお暇を頂きたく存じます」と申し出て屋敷を去った。

 ツワブキ屋の店主、哲五郎てつごろうにその話をすると、親切にも自分の店の女中を一人周旋してくれた。


「ですがずっと奉公させるつもりはありません。あくまで臨時の手伝いです。できるだけ早く雪畑様のほうで新しい小間使いを雇ってください」


 文之助にとって哲五郎は冷や飯食いの自分を見くびることなく、内職の請負人うけおいにんになってくれた恩人だ。

 そんな哲五朗の計らいで雪畑邸にやってきたのがだった。

 年は十と七つ。五尺(約151センチ)そこそこと小柄で、気立ての温和おとなしい娘だった。屋敷うちのどこでも、てきぱきと働く姿が見て取れた。そばを通ると何だか良い匂いがした。


 おはつは住み込みではなく通いの女中だ。毎朝雪畑邸まで足を運び、夕方になるとツワブキ屋へ帰っていく。

 勝手口の戸を開けて、おはつを屋敷内に入れるのは文ノ助の役目だった。また日が暮れてからの一人歩きは危ないと思い、おはつがツワブキ屋に帰る時は付き添うにしていた。


 おはつは地味な色目の着物に、霞文様かすみもんようの帯を締めていた。「かすみ」は春の季節感を表す柄である。今はまだ秋の暮れだ。


「季節外れなのはわかっておりますが、これから冷え込みが増すので、帯だけでも春めいたものがいいかと思いまして……。変でしょうか?」

「いや、全然そんなことない。……似合ってると思う」

「ありがとうございます」


 おはつがふわりと微笑んだ。

 散歩がてらの道すがら、おはつとの他愛ない会話が、不遇をかこつ暮らしのささやかな癒しだった。

 文ノ助は自分でも気づかぬうちにおはつに惹かれていた。

 しかし冷や飯食いの自分なんぞに告白されても迷惑なだけだろう。

 うだつの上がらぬサンピン侍でも、恋心を忍ぶくらいの芸当はできる。


 〇


 おはつの身に災難が降りかかったのは、雪畑家に女中奉公して三ヵ月後のことだった。


 〇


 ヒノヤマ藩は立冬を迎えた。

 その日も文ノ助はいつものようにおはつが来るのを待っていた。しかし定刻になっても彼女は姿を現さなかった。

 こんなこと今まで一度もなかった。

 胸騒ぎを覚えた文ノ助はおはつを迎えに行った。ツワブキ屋までの道を歩いていたら、どこかで鉢合うはずだ。

 まだ早朝のため往来に人影はない。

 しばらく歩いて板塀と藪が連なる小道に差し掛かった時、なにやら争ったような形跡を見つけた。

 昨日の雨でぬかるんだ地面に、三人分の足跡が不自然に入り乱れていた。そばにはおはつのものと思わしき草履が片方脱げ落ちていた。それは一目で悪い出来事を予感させる光景だった。


 まさか……。でも、これは……。


「拐かし」が起きたとし考えられない。

 件の足跡は藪の奥の竹林に続いていた。文ノ助は足跡をたどって走った。

 かすかに聞こえる男の太い笑い声と、女の細い泣き声。

 薄暗い竹林の奥へ進むにつれて揉め事の気配が強まっていく。


 見つけた。

 派手な羽織をまとった若侍が小柄な町娘に馬乗りになっていた。狼藉者はもう一人いて、娘の足を押さえつけていた。


 おはつは今まさに身ぐるみを剥がされかけていた。

 無津呂白茂はだしぬけに現れた文ノ助に気付くと、おはつから奪い取った帯を投げ捨て、脱兎の勢いで逃げ出した。

 腰巾着の男も後を追う。

 文ノ助は急いでおはつに駆け寄り、彼女を抱き起した。

 血の気を失った細面、その左側の頬が赤紫色に腫れていた。無津呂に殴られたのだ。


 あいつ……アイツ……あの野郎!


 はらわたが煮えくり返るような怒りが込み上げてきた。

 文ノ助は無津呂たちの後を追った。


 〇


 冷たく乾いた風が周囲の竹藪をざわざわと揺らしている。

 文ノ助は竹に囲まれた荒れ地で、無津呂とその腰巾着の男と相対した。


「無津呂殿、こいつは雪畑の次男坊ですぞ」


 取り巻きの男が文ノ助を指さした。


「なんだお前だったのか。つい逃げてしまったが、その必要はなかったな。ん? なんだ、その目は? もしや怒っているのか?」


 無津呂が鼻で笑った。狼藉を働いた連中に悪びれる様子は皆無だった。

 激昂した文ノ助は無津呂に殴りかかるも、簡単に避けられてしまう。


「口の利き方がなってないぞ。落ちこぼれの分際で」


 すぐ​さま​反撃の鉄拳が​飛んできた。

 文ノ助は無津呂に頬を殴打され、枯れ葉の積もった地面に転倒した。


「威勢よく挑んできたと思えば、この様よ。いいところであったのに出しゃばるでないわ!」


 無津呂が文ノ助を何度も蹴りつけた。腹部が鈍く痛み、口の中に不快な鉄の味が広がった。


「いやはや、まったくその通りでございますな。雪畑の冷や飯食いよ! 無津呂殿は貴様なんぞよりも身分も実力も格上なのだ! わかったら、さっさと立ち去れ!」


 遠巻きに見ている腰巾着が文ノ助を罵った。


「だ、黙れ……」


 文ノ助は引かなかった。なんとしてもこの狼藉者をぶちのめし、おはつに詫びさせなくてはならない。


「ゆるさ……ぬ……ムツロ……おまえは……絶対にっ!」

「おい、こやつは何と言っておるのだ?」

「俺は生きる価値のないゴミクズです、と申しておりますな」

「はははっ、左様か。まさにその通りよ」


 無津呂と取り巻きが揃って、耳障りな笑い声を上げた。


「はぁ……はぁ……」


 文ノ助はよろよろと立ち上がった。

 視界が霞む。骨が軋む。手足が鉛のように重い。

 ボロボロになりながらも文ノ助は無津呂に挑んだ。余裕綽々よゆうしゃくしゃくだった無津呂たちも、次第に文ノ助の気迫を不気味に思いはじめた。


「ええい、虫の息のくせにしつこいぞ! いい加減地べたを舐めてろ! 雑魚が!」


 鬱陶しそうに怒鳴った無津呂が抜刀した。文ノ助も刀の柄に手をかけた。


「おいおい忘れたのか? 貴様は道場で一度たりとも無津呂殿に勝てなかったのだぞ!」


 取り巻きの男が煽る立てるように言った。

 悔しいがその通りだった。試合用の木剣で勝てないのだから、真剣で勝てるはずもない。剣の才覚は間違いなく、無津呂のほうが上だ。

 しかし……。

 それでも……。

 ここで引くわけにはいかなかった。

 文ノ助も刀を構えた。


「前々から生身の人間で試し斬りがしたいと思っていたのだ。丁度いい。俺が雪畑家の枝落としをしてやろうぞ!」


 無津呂が猛然と斬りかかってきた。満身創痍の文ノ助は反応できない。


「くたばりやがれ!」

 

 袈裟斬けさぎりにされかけた瞬間、文ノ助の脳裏を走馬灯が駆け巡った。




 刹那、文ノ助は前世の記憶を思い出した。




 自分が「異世界転生者」であることを自覚すると、いまだかつてないほど身体が速く動いた。

 文ノ助は本来なら不可避であるはずの斬撃を紙一重でかわした。そして空を切った無津呂の剣を側面から薙ぎ払うように一閃。

 鋭く短い金属音。飛び散る火花。

 無津呂の刀が真っ二つに折れた。


「はっ? えっ?」


 無津呂は状況が理解できず、目を白黒させる。折れた刃がひゅんひゅんと弧を描き、地面に突き立った。


「か、刀が……俺の刀が……」


 無津呂がどすんと尻もちをついた。ゆらりと文ノ助は前進する。


「ひっ! く、来るな!」

「よくも……おはつを殴ったな……」

「あ、あの娘のことか? いいか! 。わかるか? つまりは本人の因果だ!」


 無津呂が半べそ顔で叫んだ。


「ならばお前がこれから斬られるのも、お前が招いた因果だ」

「ば、馬鹿な真似はよせ! 来るでない! 来るな!」

「身から出た錆だ。身をもって償え」


 文ノ助は殺意をたぎらせながらそう言うと、刀を上段に構えた。

 人を斬るのは初めてだが、なぜだろう? 一刀のもとに瞬殺できる確信があった。

 いざ狼藉者に引導をわたそうとした瞬間、背後から足音が聞こえた。振り向くと身繕みつくろいをしたおはつが、ほうほうの体でこちらに走ってきた。


「おやめください!」


 おはつが文ノ助の腰に、ひしとしがみついた。


「止めないでくれ。こいつは……こいつだけは……」


 文ノ助はおはつの手を振り払おうとした。それでもおはつは「おやめください!」と涙ながらに訴えた。

 この時の文ノ助は完全に人斬りの顔になっていた。おはつは凶行に走りかけた文ノ助を必死になって止めたのだ。


「すまない……」


 おはつの涙が文ノ助の「殺意という刀」の鞘になった。

 少しの間、沈黙が落ちる。おはつが体を離した。


 刀を鞘に戻した後、文ノ助は渾身の力を込めて無津呂の顔面を殴った。

 浅ましき狼藉者は仰向けに倒れ、白目を剥いて気絶した。もはや見損なう価値すらない醜態だ。


「今はこれで手討ちにしておいてやる。……おい」


 文ノ助は棒立ちになっている取り巻きの男に目を向けた。「ひいいい!」と情けない悲鳴が上がる。


「お前は、このゴミクズ野郎の後片付けだ。わかったら、とっとと失せろ。金輪際おはつに近付くな」


 それだけ言い捨てると、文ノ助はおはつを背負い、急ぎツワブキ屋まで走った。

〇当作品の異世界転生者の設定


 一度死んだ人間が「転生」すると、その世界では尋常ならざる身体能力を発揮します。

 悪党に斬殺されかけたことで、主人公は異世界転生者として覚醒し、孤独な社会人であった頃の記憶と、ずば抜けた身体能力を取り戻すことができました。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

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