ツワブキ屋におはつを預けた文ノ助は一旦自邸に戻った。すぐに父の部屋へ行き、無津呂の件を報告した。
だが……。
「無津呂殿は血気盛んなお年頃じゃ。時には羽目を外してやんちゃされることもある。今回の件は若気の至りということで水に流そうと思っておる。世に吐いて捨てるほどいる木っ端女中のために、武家同士が争うのも愚かしい」
父は過剰に無津呂を擁護した。
どうやら文ノ助が家を空けている間に、父と無津呂家の間で金銭のやり取りがあったらしい。被害者であるおはつを脇に置いて、勝手に示談を成立させていた。
無津呂がしでかしたことは、酌量の余地のない下劣な悪行だ。
お咎めなしなんて絶対許せない。
しかし、いくら文ノ助が抗議しても父は「この話はもう終わり」の一点張り。
これではもう無津呂を罰することができない。
「無津呂殿はおはつをご所望である」
兄がじろりと文ノ助を睨んだ。
「お前は知らんだろうが、無津呂殿はおはつを好いていたのだ。
うちから出てくるところを見掛けてお気に召したらしい。
だからそばに置きたくて、自分の屋敷の女中になるように勧誘したのだ。下賤な町娘にはもったいない話よ。あんな幸薄そうな娘のどこがいいのか、俺にはわからぬが……」
――こうして近くで見ると、なかなかの上玉ではないか。どうだ? お主、我が屋敷で働いてみぬか? 奥向きの女中としてな。
無津呂はおはつが一人でいる時に接触を図ってきた。それが今朝のことだ。
――なぜ断る? 俺は高名な剣術道場の跡取りだぞ。
――雪畑の家なんぞとは格が違う。給金もはずむと言っているのに。
――おのれ、無礼な小娘だ。
――言いなりにならないのならば力づくで……。
「しかしこともあろうに、おはつはそれを断った。ゆえに今朝のような事態を招いたのだ」
――俺の誘いを断ったから、あの娘はあんな目に遭ったんだ!
あの時の無津呂のセリフは、そういう意味だったのか。おはつは運悪く無津呂たちに鉢合わせしたのではなく、待ち伏せされていたのか。
「まったくお前も余計なことをしてくれたわい。仕置きの現場に乱入するだけではなく、不意をついて無津呂殿の愛刀を折ってしまうとは……。武士道にあるまじき卑劣な行為じゃ」
父の叱責を文ノ助は右から左に聞き流した。
無津呂の野郎。
謝罪どころか被害者面とは……。あまりの厚顔無恥さに反吐が出そうだった。
「お前の不始末もおはつを差し出せば不問にする、奉行所に訴え出ることはしないと無津呂殿の父君が約束してくださった。ありがたき温情処置じゃ」
「……世間に恥を晒すことになるから当然でしょうな」
文ノ助は心底呆れた声で言った。
無津呂側は文ノ助を訴えない代わりに、目当ての町娘を寄越せと要求している。ありえない横紙破りだ。
「まるで反省しておらんな。いい機会じゃ。また無津呂殿と揉め事を起こされても困る。今日をもってお前は勘当とする。だが、その前におはつを連れ戻せ。お前がどこかへ連れて行ったのだろう? 最後くらい我々の役に立て。その後はどこへなりとも消えるがいい」
父が辛辣な口調で告げた。
「前者は別に構いませんが……」
もしおはつが無津呂の屋敷へ奉公に上がったら、囲われ者にされるのは目に見えている。
「おはつが無津呂家の女中になれば、どのような目に遭うか、お二人は想像がつかないのですか?」
文ノ助は父と兄の顔を交互に見た。
「そのようなこと当家が関与するところではない」
「父上のおっしゃる通りだ」兄も父に追従した。
あまりにも不人情な対応に、文ノ助は憤った。
「わかったら早くあの娘を」
急かす父を文之助は制した。
「所詮俺は武家社会不適合者。保身のために世話になった町娘を人身御供にはできませぬ。断固拒否させていただく」
「減らず口を叩くでない! この戯け者!」
「聞き分けのない愚弟めが! あの娘を無津呂家に献上すれば、すべてが丸く収まるのだぞ!」
父と兄が口々に怒鳴った。
「おはつを賄賂の品みたいに言うな。人でなし共」
文ノ助は微塵も怯まず、屹然と言い放った。部屋の中が剣呑な雰囲気に包まれていく。
兄がすっと立ち上がった。
「目先の情に流されよって……。愚弟よ、お前はやはり侍らしからぬ者だ。たまたま無津呂殿に勝ったからといって図に乗るなよ。道場主のご子息だから気を遣っていたが、実際は俺のほうが無津呂殿より強いのだ。剣でも徒手空拳でもな」
兄が文ノ助に制裁を加えようと近付いてきた。もはや一触即発だが文ノ助は座したまま動かない。
「……」
もうこの家には居られない。
ならば最後に。
文ノ助は掴みかかってきた兄を軽くいなした。逆に兄の胸倉を掴んで持ち上げ、背負い投げを繰り出した。
勢いよく投げ飛ばされた兄が襖を突き破った。そのままゴロゴロと転がり、隣の部屋の柱にぶつかった。
当然兄が弟を一方的に打ち据えると思っていた父は唖然となっていた。
「さて俺は今しがた勘当された身。これにて失礼仕る」
文ノ助は着の身着のまま、生家を逐電した。
〇
「あなたもウチとご自宅を行ったり来たりで忙しい方ですな」
床の間を背にして座った哲五郎が、狛犬のような強面をさらに険しくした。
再度ツワブキ屋に赴いた文ノ助は、店主の哲五郎に改めて謝罪した。哲五郎にとって今回の件は親切を仇で返されたのも同じ。
憤懣やるかたないはずだ。
「土下座はもう結構ですのから面を上げてください。お顔の腫れに障りますよ。……いやしかし面妖ですな。今朝ウチに駆け込んできた時は人相がわからぬほどだったのに、わずか半日でほとんど元通りのお顔だ」
「……丈夫なのが取り柄でして」
文ノ助は目を逸らしながら言った。無津呂との戦いで負った数々の打撲傷はいつの間にか治っていた。
「おはつが負った心の傷も早く癒えると良いのですがね」
「……おはつは今どこに?」文ノ助は訊ねた。
「離れの座敷におります。恐ろしい思いをしたでしょうから今日一日はゆっくり休ませてやるつもりです」
「会えますか?」
「おはつも年頃の娘。今の赤紫に腫れた顔を見られたくはないでしょう。心配なのはわかりますが、今はそっとしてあげてください」
「……わかりました」
消沈する文ノ助を見た哲五郎が、おもむろに吐息した。
「今回の件は手前としても非常に遺憾でございます。その無津呂というお武家はおはつにご執心のようですな」
「はい」
「まぁ、おはつは目立たないだけで、不器量ではありませんからね。……あの娘は見ての通り素朴な顔立ちで、美人画になるような佳人ではありません。しかし、どうしてか一部の男を惹きつけるところがありましてな。本人にその自覚はないのですがね」
哲五郎が少しだけ間を置いた。
「アレは十の時にふた親に連れられてツワブキ屋にやってきました。手前の妻がよくよく鍛えましたから、一人前の女中に育ったと思っております」
「はい」
我が家でも細かいところによく気のつく働き者だった。おはつは。
「同室の女中から聞いた話ですが、おはつには妹が一人おるそうです。しかしアレのふた親は妹ばかりを溺愛し、姉のおはつを蔑ろにしていたようです。
普通の奉公人は藪入りになると実家に帰りますが、おはつは一度も里帰りしたことがありません。おそらく実家に居場所がないのでしょうな。……身分は違えど、どこかの誰かと似ておりますな。寄る辺ない境遇が」
「……」
思い返すとおはつの口から家族の話を聞いたことがない。
そういう事情があったのか……。
ほとぼりが冷めるまで実家に帰してやるのも、一つの手だと考えていたが、それもまたおはつには酷な選択のようだ。
「時に雪畑殿、おはつが無津呂なにがしの誘いを断ったのはなぜだと思いますか?」
「え? それは主人である哲五郎さんの許可もなしに、仕事先を鞍替えできないからでは?」
女中としての忠義だ。
「なるほど……。確かにそれもあるでしょうが、別の理由もあると手前は思っております」
「別の理由?」
「今のあなたが知る必要はありません。悪しからず」
それはそうと。
哲五郎が文之助をなかば睨むように見つめた。正直、無津呂や兄よりも迫力がある。
「あなたはこれからどうするおつもりですかな?」
「家を捨て、おはつを守ります。それが俺のケジメです」
おはつの辛苦に比べれば浪人になるなんて些末なことだ。
「あなたは随分と珍しいお人柄をしておられる。お武家様らしくない」
「誉め言葉と受け取らされていただきます」
文ノ助は苦笑した。
「ツワブキ屋におはつを置いておくと無津呂なにがしが追いかけてこないとも限らない。うちはしがない貸本屋。二本差しと争うのは勘弁願います。気の毒ですがおはつにはツワブキ屋を出て行ってもらいます」
「て、哲五郎さん、そんな」
「まぁまぁ、話は最後までお聞きなさい。
手前には寒ツバキ町という下町で、長屋の大家をやっている友人がおります。その友人に頼んで部屋を一つ用意してもらいました。
おはつにはそこへ引っ越してもらいます。寒ツバキ町なら、ここからずいぶんと距離がある。そこでならケダモノに噛まれる心配もないでしょう。話を通してくので雪畑殿もそこに移り住むといい」
「ありがとうございます」
さすが世慣れた商人は手回しが早い。
「ただし二つほどお願いがあります。せんべい長屋ではおはつと別々にではなく、同じ部屋に住んでください。そのほうが店賃が一人分浮く。節約は大事ですよ」
「え? いやいや、それはマズくないですか?」
「おや? なぜです?」
哲五郎がすっとぼけた顔で言った。
「一応俺も男ですし、同室はさすがに……」
「あなたなら傷心の娘に不埒なまねはしないと信じております」
「信頼していただけるのは嬉しいですが、いきなり同棲なんて、おはつが嫌がると思いますよ」
「その心配は無用でしょう」
なぜか哲五郎は断言するように言った。その理由を訊く前に話が続く。
「さて、二つ目のお願いですが、おはつとは夫婦者として暮らすとよろしい。無論、形だけで結構ですので」
「め、めおともの?」
「左様。あなたはおはつの用心棒になるおつもりのようだが、夫婦でもない若い男女が一つ屋根の下に住んでいたら、長屋の人たちから奇異な目で見られます。
ただでさえ訳ありなのだから目立つのは避けなくてなりませんよ」
「し、しかし」
「おや? 先程おはつを守るとおっしゃいましたよね? よもや武士に二言はありますまいな?」
ぐうの音も出なかった。
「あなたと一つ屋根の生活がどうしても嫌になったら、おはつは縁切り寺に駆け込むでしょう。そうならないように励むことです」
「き、肝に銘じておきます」
口には出せないが前世でも文ノ助は未婚だった。それどころか交際経験ゼロの非モテぼっちだった。夫婦所帯になるなんて――形だけだとしても――未知の地平に旅立つようなものだ。
「……いくら仮初めとはいえ、俺のような者に亭主役が務まるでしょうか?」
「一緒に住むように頼んだ途端に不安げですな。おはつを守ると言った時は頼もしさを感じたのですが……」
「なにぶん予想外でして……」
「寄る辺ない者同士が同じ鞘に収まるのは自然なこと。なるようになるでしょう」
哲五郎がのんびりとお茶をすすった。
「あなたも今日はツワブキ屋に泊っていくといい。駕籠を手配しておきますから、明朝おはつと一緒に寒ツバキ町へ向かってください。おはつには手前から話をしておきます」
「承知しました。重ね重ねご迷惑をおかけします。寒ツバキ町の何という長屋ですか?」
「せんべい長屋です。なんでも隣家との壁がせんべいと同じくらいの強度だから、そういう名前になったとか」
おいおい大丈夫か? その長屋……。
「ああ、そうそう。先程家を捨てるとおっしゃいましたが、刀を捨ててはいけませんぞ」
おはつを守れなくなりますからね。
哲五郎がやけに凄みのある表情で、そう結んだ。
この後、壱話冒頭シーンに繋がります。
主人公と脇役の会話ばかりでヒロインの影がすこぶる薄いですが、次話から長屋暮らしがスタートするので出番が増えていきます。
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