「……落ち着かれましたでしょうか」
もの静かな、しかし柔らかい口調で女は貞吉に尋ねる。顔はやつれ、全体的に青白い肌をしているが、その様子から心配しているのは確かだった。
「あぁ、大丈夫だ。折角起こしてくれたのにみっともない姿を見せちまって、本当に面目ねぇ」
女を認識した直後、声にならない声をあげながら腰を抜かした自分を思い出し、貞吉はばつが悪そうに俯いた。
自分が取り乱している間も、女は困った様子ながらもじっと待ち、害意がないことを示してくれたおかげで、何とか持ち直すことが出来たのだから。
「驚かせるつもりはなかったのです。ただ、あのまま寝ていたら危ないと思いまして、思いきって声をかけたのですが……。」
申し訳ございません、と頭を下げようとする女に、貞吉は手で制した。
「いやいや、謝る必要は微塵もねぇ。」
改めて貞吉は女の顔を見やる。
健康から程遠いのは先の通りだが、目鼻立ちのすっきりとした妙齢の女性だ。
本人から発せられる、品のある振る舞いと併せたならば、大抵の男は二度見するだろう。
それも生前ならば、の話だが。
「例えあんたが幽霊であっても、あのまま寝てたら追い剥ぎにあってたかもしれねぇし、そうでなくとも風邪をひいちまったかもしれねぇ。あんたは恩人だよ。礼を言わせてくれ。ええと…」
「お圭、と申します」
「お圭さんか。俺は貞吉ってんだ。本当にありがとう」
お圭と名乗った幽霊は、困った様な、しかしどこか照れた様子で貞吉に笑いかけると、思い出したかの様に橋の前の立て札に目をやった。
それを見て、貞吉は本来の目的を思い出し、口を開いた。
「もしかして、番付を書いていたのはお圭さんかい?」
お圭は頷く。
「はい、私でございます」
「やっぱりか。今の素振りでそう考えたのだが。しかし……」
何でまた、と言おうとして、貞吉は口をつぐんだ。お圭の目に涙が浮かんでいたからである。
「あ、いや、すまねぇ。」
「いえ、いえ、貞吉様には何一つ非はございません。全ては私の独りよがりなのですから」
着物の袖でそっと涙を拭いながら、体を震わせているお圭を見て、貞吉は思いきって踏み込むことにした。
「なぁ、お圭さん。俺が無作法者なのは承知しちゃいるが、事情を聞かせちゃくれねぇか」
「え……」
お圭が顔を上げる。目尻から頬にかけて涙の跡は残っているものの、それが彼女の魅力を損なうものではなく、寧ろ庇護欲さえ掻き立てる。
「あんたみたいな心優しい人(いや、幽霊か?)……まぁそんな人が泣いてるのは忍びねぇ。誰かに話すと楽になることもあるぜ」
暫く固まっていた幽霊は、周りを見渡してから地面に視線を落とす。貞吉はまるでこの場だけ時が止まった様な錯覚に陥ったが、お圭の返答を聞くまでは決して動かなかった。
夜の猪高橋に強い風が拭いた。
その風に後押しされるかの様に、お圭は顔を上げると貞吉を見つめた。
「……それでは、貞吉様。」
相変わらずの青白い顔をではあるが、口調は僅かながら芯の通った声になった。
「もう、22年も昔の話でございます……」
「私には、将来を約束した殿方がおりました」
殿方、という言葉を発した際、お圭の唇は震えていた。
「こう見えて私、小間物を扱う商家の娘でして。弟が家業を将来継ぐことが決まっていましたので、さて私の身の振りをどうしようかと両親が考えていたところに、縁談の話が持ち掛けられました。相手の方は“志灘屋”という酒屋の跡取りでした。」
「私の様な者が口を挟む余地などありません。それに立派な酒蔵をお持ちでしたから、両親の喜ぶ姿を見せてやりたい気持ちもあり、嫁ぐことを決めたのです」
お圭がふと息をつく。
幽霊としてこの世に留まり、これ程話すのは一体いつのことだろうか。それでも不思議なもので、心はその先の言葉を紡ぎ出そうとしていた。
「お相手の方の名は利八郎様と仰いまして、何と言いますか……酒を大変好み、夜な夜な活発な方ではありました。嫁ぐことが決まった後に、何度かお会いしましたが、赤ら顔でなかった日はついぞ一度も見たことはありませんでした」
貞吉は顔をしかめた。
確かに、江戸っ子は朝起きてから景気付け、昼飯時にはこの後の仕事の活力だなんて酒を口に運ぶ生き物だ。
しかし、仕事を終えるまでは、酒に酔うことがあっても溺れることは許されないというのもまた江戸っ子の気質なのだ。どうやら、利八郎はそこを弁えることが出来なかったらしい。
お圭も同じ想いなのだろう。男の恥を自分の恥の様に語るその姿を見て、貞吉は心を痛めた。
「利八郎様にはお気に入りのお相手がいらっしゃったようでして、勝手に縁談が決まったことも面白くなかったのでしょう。」
利八郎の境遇には思うところがあるのか、それともお圭の優しさか。それは本人さえも意識していないだろう。
「そんな時です。あの番付が張り出されたのは」
話の核心に触れるのだろう。お圭の表情は固く引き締まり、着物の間を通り抜ける夜風が一段と冷えてきているのを、貞吉は感じ取った。
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