「とある朝、この猪高橋の前の立て札に、『匂い油(香水)の似合う看板娘』と書かれておりまして、そこには私の名が連なっていたのです」
「へぇ、大したもんじゃねぇか。」
貞吉は大仰に頷く。
お圭ほどの器量と所作があれば、確かに看板娘として人気はあっただろう。そこにすれ違い様に匂い油が漂えば鬼に金棒だ。
「その時は自分の名があることに嬉しく思いました。お上の公認ではなかったため、その日の昼には破られたそうですが」
「いやぁ、例え公認でなくとも、お圭さんを認めた人がいたのは事実だ。胸張って良いと思うぜ」
「ありがとうございます。実は匂い油も利八郎様から頂いたものなのです。あの方から頂いた初めての贈り物でしたから、自分と共に利八郎様も認められた様な気がして、その時は深く考えず喜んでいたのですが……」
真っ直ぐな誉め言葉にはにかみながらも、お圭の表情は未だ固かった。
「翌日、志灘屋の御主人が来られまして、縁談の取り消しを求められたのです」
「本当かい!?」
誰もいない橋の前で、貞吉の声が響き渡った。
「御主人曰く、『酒蔵を継ぐ者は、職人のみにならず匂いのあるものを付けてはいけない決まりだ。うちに嫁ぐと知っておきながら、匂い油を振り撒く女に家のしきりは跨がせられない』とのことでした。」
「確かに酒蔵を営む者にとって、化粧や匂い油の類は厳禁です。私は利八郎様から頂いた、というだけで舞い上がってしまい、そのことを忘れてしまったのですから、弁解の余地はございません」
お圭はふと遠くを見やる。
貞吉もそれにつられる様に振り返ったが、そこには全ての景色を吸い込んだ夜の闇しか見通せなかった。
「両親の顔に泥を塗ったわけですから、私は勘当されました。とはいえ、当てなどありません。さ迷い続けた挙げ句、私は夜の猪高橋にこの身を投げたのです。全て、自分の身から出た錆、というものなのでしょうね……」
「お圭さん……」
元来、気の利く台詞など思いつかない貞吉ではあるが、それでも彼なりに精一杯の気持ちを込めて口を開いた。
「違う、違うよ、お圭さん。確かにあんたの不注意もあったかもしれないが、全てを一人の責任に押し付けるのは間違ってるんだ。あんたが悪いってんなら、匂い油を渡した野郎だって同罪だろう。しかもそいつは酒蔵の跡取りなんだ。そもそも、人様の娘を預かろうってのに、息子の夜遊びに注意も出来ねぇ親も情けねぇ。なぁ、お圭さん、例え未公認だろうと、あんたは番付に選ばれたんだ。だから、その」
ここまで勢いに任せて喋ってきたが、これだけはきちんと伝えたい。不器用な青年は女幽霊の手――後で思い返すと、幽霊も手を取れるのだと知った――を取った。
「“お圭”って人の価値を、あんたの身近にいた奴だけで決めちまう必要はないんだよ。」
それを聞いたお圭は。
目から溢れるものを抑えられず、されど隠そうとはせず。
――貞吉の胸に顔を埋めた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!