“灘の生一本”という酒がある。
その酒は一見、どこまでも透き通った水の如く、だが深い味わいが舌に浸透する錯覚を覚えながら喉を駆け抜けていく。
灘の酒に並ぶほどの素晴らしい清酒を生み出してみせる。
志灘屋の由来はここから来ているのだ。
役人は一瞬怪訝な顔をしたが、この界隈でもそれなりに有名な酒蔵を所持する長だと気付くと、すぐに態度を軟化した。
「あぁ、志灘屋の旦那じゃあないですか。どうしてこんなところに?」
「なに、使い走りにやった新入りから、猪高橋の立て札に私の名前が書いてあると言うのでな。ちと確かめに来たというわけよ」
役人が新たに立て札に目をやると、番付の上位に利八郎の名前が確認出来た。
おっ、と感嘆を漏らした役人を見て、利八郎は顎を手でさすりながら満足そうに頷いた。
「お上の公認ではない故、大した意味は無いのだろうが、それなりに酒に覚えはあるのでな。しかし、役人のお二方。騒がしかったのは申し訳ないと思うが、皆の言うことも分からんわけではないのだ」
「と、言うと……?」
気づけば周囲の町人達も、利八郎に視線を注いでいる。演者の様に芝居がかった咳払いで間をとりながら、利八郎は更に饒舌に語る。
「この誰が書いたとも分からぬ番付、今までは自分の名が書かれていたとしても、内容が内容だけに、目くじらをたてることもなければ誇りに思うこともなかった。」
「だが、今回ばかりは趣が違う。“江戸一番の酒飲みは誰か”ときた。酒は我らの最大の楽しみの一つ。皆が興に熱するのも、致し方ないことであろう」
利八郎の真意を掴みかねているのか、耳を傾けていた役人達が方眉を下げたまま問う。
「そう言われりゃ、確かにそうですが……。しかし旦那、かといって朝から騒いでいい道理はありやせんぜ」
役人の言葉に大仰に頷き、よくぞ聞いてくれたとばかりに利八郎は言葉を続ける。
「うむ、そちらの言い分ももっともだ。ならばここは一つ、酒飲み大会を開催するのはどうだろうか」
酒飲み大会、という単語に集まっていた町人達からワッと歓声があがる。
「番付を剥がして無効としたところで、皆の気持ちは収まらんだろう。ならば番付に記載された者が大会で競えば、自ずと結果は明らかになるであろうからな。その場合、酒の用意はこの志灘屋が受け持とう」
歓声は周りの空気を集め、渦を巻くかの様に加熱していく。
「酒飲み大会、いいじゃねぇか」
「流石は志灘屋! 太っ腹だ!」
「アタシが一番だって見せつけてやるよ!」
志灘屋に対する称賛と、既に大会が行われるのが規定事項の様な群衆の熱狂っぷりに押され、役人達も
「分かった、分かった! このことはお上に相談する故、一旦落ち着け! さぁ、早う朝の支度に戻らんか!」
役人が大きく両手を振り、渋々と人だかりの輪が小さくなっていく。
とはいえ、帰路に向かう各々の口振りは酒飲み大会の話で持ちきりだ。
大会が開かれることに確信を持ちながら、貞吉も人混みに溶け込みながら、お圭はこのやり取りを見てくれていただろうかと、思いに耽った。
「そんなわけで、酒飲み大会はここ、猪高橋で来月の頭に開催されることになったぜ」
番付騒動から二日後の夜、相変わらず真夜中の猪高橋にて貞吉とお圭は顔をつきあわせていた。
少し違う点があるとすれば、貞吉とお圭が座りながら酒を酌み交わしていることだろうか。もっとも、飲んでいるのはほとんど貞吉だが。
「ここまでくりゃ、計画はほとんど成功した様なもんだ。お圭さんに伝えた通り、ちょうど十日でカタがつきそうだよ」
空になったお圭のお猪口に、酒を注ぐ。
おずおずと両手でお猪口を支えながら、お圭は貞吉に尋ねた。
「貞吉様の計画に身を委ねているわけですから、内容をお聞きするつもりはございません。ですが、どうしても分からないことが御座います」
「うん? 分からないこと?」
身を委ねる、という言葉に気恥ずかしさを覚えたのか、貞吉は地面に置かれた酒に視線を移し、オウム返しの様に相槌を打つ。
「今度の大会が意趣返しの肝なのでしょうが、あの番付一つで開催までこぎ着けられたのが不思議なのです。それに、利八郎様が提案し、酒の用意までしてくれる保証はあの時点ではどこにもなかったはず。一体どうやって……」
「あぁ、そりゃ簡単さ」
銚子に酒が入ってないことに気付いたのだろう、頭をかきながら貞吉はのっそりとお圭の方を向いた。
「番付は酒飲み大会を開くためじゃあねぇ。人を呼び集めるためのもんさ」
「人を?」
「おう。人を集めて盛り上がっているところに、誰かが疑問を呈したり野次を飛ばさせるんだ。そうすると、それに対して他の奴が反応して、議論合戦になるわけよ」
実際、最初に野次を飛ばしたのは、馴染みの酒屋で貞吉が最初に幽霊話を聞いた、あの男二人に寄るものだ。「上手くいけばタダで酒が飲める」と言いくるめ、二人を買収したわけである。
「そうなると騒ぎを聞き付けて役人どもが駆けつける。そこまでくりゃこっちのもんよ」
「しかし、その場に利八郎様が居られるとは限りませんし、何より酒飲み大会を提案してくれるとは限りませんよ?」
頬に指を当てながら首を傾げるお圭に、貞吉はまるで昼の利八郎がして見せたかの様に咳払い一つ、腕を組んだ。
「志灘屋の前で、買収した奴らに、利八郎が番付上位だってことを大声で会話しろ、って伝えたからな。結局使い走りが来て知らせたらしいから、無駄になっちまったけど」
そう言いながらも、貞吉は恐らく自分の策で利八郎が動いたと踏んでいる。
利八郎にしてみれば、店の前の噂話よりも、使い走りに言われて様子を見に来た方が体裁が良いはずたからだ。
しかし、それをわざわざお圭に伝えなくても良いだろう、とは思っている。
いくらお圭が利八郎を怨んでいたとしても、自分の旦那になる予定だった男を、想像で貶めるのは憚られた。
うんうん、と真面目に頷いているお圭を見て、少しだけ言葉を早める。
「利八郎が来ればもう大丈夫だ。元々酒と夜遊びが好きな奴ってのは、所帯を持ったところですっぱり止めるなんて出来やしねぇさ。むしろ、酒蔵の顔になっちまったことで顔が知れてるから、迂闊に遊びにも行けねぇから、今回の件は渡りに船とばかりに跳びつくと思ってたぜ」
「もちろん、利八郎様の性格は存じておりますが……。それでも、奥様や職人の方々はどうでしょうか。いくら主といえど、店の益なく酒を振る舞うなど、許してもらえるとは思えません」
次々と繰り出される、お圭の疑問を夜空に浮かんだ雲のところでまで吹き飛ばさんばかりに、貞吉は豪快に笑った。
「いや、利はあるのさ」
「どうして?」
「考えてもみてくれよ。利八郎の提案に町人が半狂乱になって、たまらず役人がお上に確認を取ったんだぜ? それが開催される運びになった以上、こいつは未公認の番付から始まった“お上公認の酒飲み大会”なんだからよ」
あっ、とお圭が声をあげる。
ここまで来ると、彼女にも事情が飲み込めた。
「つまり、こういうことですね? お上の許しがある以上、この大会は江戸に生きる全ての者の耳に入る。そうなれば、志灘屋の名も共に伝えられる、格好の宣伝材料となるのですね」
「そういうこった。しかもそれだけじゃねぇ。酒飲み大会を開催するのに志灘屋を頼るほど、お上のお墨付きってわけだからな」
そこまで話して貞吉がふと猪高橋に目をやる。
虫の声や川のせせらぎさえも無い。普段は何気なく耳に残る音がしないのに、不思議と寂しいとは感じなかった。
お圭も、貞吉に釣られて猪高橋を眺める。
幽霊となって見るこの景色は、どの様に映っているかは貞吉には分からない。
それでも、自分と同じ感覚であることを願ってしまうのは勝手なのだろうか。
暫くの時が過ぎ、お圭が口を開く。
「貞吉様、今日は土産まで用意して頂き、ありがとうございました。姿を見せることは叶いませんが、大会の日に猪高橋でお会いしましょう」
その言葉を受けて貞吉は気付く。
大会まで、お圭に会う意味は無いのだと。
そして大会が終わったら、自分とお圭が会う必要も無くなる。
「おう。その日を楽しみにしてくれよな」
そう言いながら立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
酔うほど酒を持参したわけでもないのに、その歩みは随分とゆっくりとしたものだった。
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