「この度は誠にありがとうございます」
「まぁ、まぁ、気にするでない。折角の機会である故に、楽しんでくれ」
猪高橋を背に繰り広げられる光景は、利八郎にとってあまり愉快なものではないのだろう。今日何度目になるか分からない定型文で返すと、間髪入れずにぐいと酒を煽った。かなりの赤ら顔ではあるが、手を止める気配は無さそうだ。
その様子を遠目から見て、貞吉は絶好の機会だと悟り、足早に利八郎の前に進んだ。
「誰だ、お主は?」
怪訝な顔をする利八郎を前に、これ以上警戒をされない為にも呑気な口調で話し掛ける。
「へぇ、あっしは貞吉と言うものでありまして、今日の機会をくれた志灘屋の旦那に感謝しております。」
もうこれで何度目か。
うんざりした様子で口を開こうとする利八郎に先じて、続けざまに言を発した。
「この様な大会を開けるのも、ひとえに旦那自身から来る日頃の行いの賜物ってもんで。そこで、志灘屋の旦那を見込んで相談があるんでさぁ」
「相談、とな」
貞吉は心の中でほくそ笑んだ。
今まで利八郎に話し掛ける者は、皆自分の“利”を求めてばかりだった。
だが、利八郎は他ならぬ自分の度量に対して話を持ち掛けていると思い込んでいる。
利八郎が体を前のめりにしたのを見届け、貞吉はゆっくりと腰を下ろし、利八郎の前に銚子を置いた。
「そうなんですよ。あ、これは失礼しやした」
そう言って相手のお猪口に事前に用意した酒を注ぐ。
利八郎ももう片方の銚子を持ち、貞吉のお猪口に注ぐ。こちらも事前に用意したものだが、中身は水だ。
互いに酌み交わしたのを確認した後、酔いが回る様に敢えてゆっくりと口を開く。
「あっしも番付に名が載っているのに舞い上がり、つい参加しちまったんですがね。」
そこで言葉を切り、ぐいと酒を煽る。
つられて利八郎も酒を煽った。
「けれども、良く考えてみりゃ女房には悪いことをしちまったかなと。『番付をはっきりさせてやる』なんて息巻いたものの、あいつには何もしてやれてねぇと今頃になって思いまして」
「むむ、それはいかんな。仮にも大黒柱であるならば、女房を大切にするのも男の努めであるぞ」
自身の行いを棚に上げていることに気づいているのかいないのか、利八郎は偉そうに諭している。
いつの間にか握りしめていた拳を広げて自分の頭をピシャリと叩き、貞吉は受け流すかの様にへへっ、と笑い、相手に酒を注いだ。
「そこでですね。この大会が終わったら、女房に土産を渡そうと思ってましてね」
「ほう、良い心掛けではないか。して、何を渡すつもりなのだ?」
お猪口が空になればすかさず注ぐ。
自分も水を一気に飲み干し、やはりつられて利八郎も飲み干す。
「実はもう用意してあるんですが……。ここは一度、志灘屋の旦那に現物を見て頂きまして、これで大丈夫か確認を……と考えた次第で。あ、これは失礼」
「う、うむ」
飽くまで自分が気の利かなかったかの様に装い、お猪口に継ぎ足していく。
心なしか、利八郎の動きも鈍っている。
「それで、一体何を渡すつもりなのだ」
まだだ。
まだ慌てるな。
貞吉は逸る心を抑え、水を喉に流し込む。
「その前に、家で渡すのも味気ねぇかと思いましてね。だったらここ、猪高橋で渡したほうが雰囲気も出ますかね?」
「ふむ……。それもそうだな……」
「そうですか! 旦那にそう言って貰えるなら間違いねぇや!」
土産の話から遠ざかっているのに本人は気付いてないようだ。どうやら、貞吉の予想以上に鈍っているのかもしれない。
「旦那、もうちょい此方に寄って下せぇ」
「……ん、こうか?」
千載一遇の機会は今しかない。
貞吉は満を持してそれを懐から取り出した。
「ほう、これはなかな…か……」
赤ら顔だった利八郎の顔が見る見る青白くなっていく。先程までの緩慢な動作は鳴りを潜め、不規則に小刻みな振動を繰り返す。
「旦那、どうしやした?」
飽くまで貞吉は素知らぬふりをして利八郎ににじり寄る。
「一体どうしたってんですかい? 飲み過ぎちまいましたか? それとも……」
利八郎の振動は徐々に大きくなる。喉の奥で引っ掛かっている。が、何を発しているのかは分からない。かろうじてか細い音だけが口から漏れだしている。
最後の仕上げに、貞吉は相手の視線にそれを合わせた。
「この匂い袋は、女に渡すには縁起が悪いんですかい?」
その言葉が引き金となったのか、利八郎は両手で頭を抱えながら天を仰ぎ、突然金切り声をあげた。
おもむろに立ち上がろうとするが、酔いが回ったのか、或いは記憶を呼び起こしたからなのか、足がもつれて盛大にすっ転んだ。
「おい、危ねぇな……って、志灘屋の旦那じゃねぇか。どうしたんで?」
他の参加者の声も耳に届いてはいないようだ。とにかくその場を離れようと、這いつくばりながらも四肢を動かす様子は、まるで羽をもがれた虫そのものだ。
なんだどうしたと周りの者も利八郎の異変に気付くが、かといって声を掛ける者はいない。必死にもがく利八郎の姿に、酒を飲むことを忘れて呆然と眺めている。
人々の奇異の目に晒されながらも這いずりながら、利八郎は酒の交換所まで辿り着いた。
「志灘屋の旦那?」
受付をしていた役人が異様な光景に気付き、声を掛ける。
役人の声を聞いてはっとしたのか、取り繕おうとして利八郎は片膝をつき、顔を上げた。
心配そうに自分の顔を覗き込む役人の横に
――猪高橋の立札。
「あ、ああ……」
利八郎が胸を抑えたと同時に、吐瀉物を撒き散らす。辺り一面につんとする匂いが立ち込めるも、勢いは止まらない。
皆が離れて様子を伺い、役人達は手をこまねくいている。
そしてようやく収まると、
「ゆ、許して…くれ……」
そう言い、利八郎は吐瀉物の上に頭から倒れた。
弾ける様に役人が利八郎の許へ駆けつけ、見物人が周りを取り囲む。
皆が利八郎を中心に輪を作る中、貞吉は一人反対方向へ歩き出した。
お圭さんは見てくれただろうか。
お圭から借りた匂い袋を懐にしまいながらそんなことを考えていると、夏の場には似合わない柔らかな風が、貞吉の体を吹き抜けていった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!