梅雨が明け、文月に入るとどこからか油蝉のけたたましい鳴き声が一斉に鳴り響く。
そんな状況だというのに、昼間から町には大勢の人々が猪高橋に集まっている。笑いと興奮、そしてほんの少しの緊張が一体化し、益々の蒸し暑さを強調させた。
「んじゃ、後は手筈通りに頼むぜ」
先日買収した男達と打ち合わせを終え、貞吉は辺りを見回す。
この酒飲み大会では、参加者は猪高橋を中心に飲み合い、酒がきれたら立札の前で次の分を貰う仕組みになっている。その時に名前を言えば、何合目かを記録してもらえるというわけだ。
人の流れや配置を確認し終えると同時に、一人の役人が立札前から高らかな声が響く。
「定刻だ! これより、酒飲み大会を行う!」
割れんばかりの歓声が巻き起こり、町が熱気と狂乱に塗り替えられていく。役人が手で制すると、人々はこぼれる笑みを隠すことなく神妙な顔つきを取り繕った。
「大会の条項は事前に説明した通りだ! 始めるに当たって、提供元の志灘屋から……」
儀礼的な挨拶に興味はないが、志灘屋、という単語が聞こえると貞吉はその方を向いた。
身ぶり手振りを交えながら、堂々たる佇まいで流暢に話す利八郎を一瞥する。酒蔵に籠るより生き生きしてるのではないかと、見たこともないのに勝手な想像を膨らませる。
「志灘屋からの挨拶は以上だ! 」
もうここまで来たら遮るものは何もない。
限界まで膨張した空気が弾けそうになるのと同時に――
「始めっ!」
猪高橋の真下を流れる川が、一際大きく波を打った。
酒を貰い、場所を確保すると、貞吉は買収した男二人と向かいあって座った。
彼らの背中の向こうに、提供元でもあり参加者の利八郎の姿が見える。
流石は志灘屋というべきか、利八郎は周りには多くの参加者を侍らせている。
志灘屋と付き合いのある者、感謝を述べる者、あやかりたい者――どちらにしても、今は動かない方が良いだろう。
「なぁ、兄ちゃん」
ふと、自分の前に座る大柄な男――酒屋で十二文酒を注文してい方だ――が話し掛ける。
「あんたのお陰で昼間からおおっぴらに酒が飲めるってもんだから、詳しい事は聞かねぇよ。だけど、俺達は本当に酒を飲むだけで良いのかい?」
隣の男も頷く。
彼らなりに恩義を感じているのだろう、何でも言ってくれという気概を感じながらも、貞吉は笑った。
「気持ちはありがてぇんだが、大丈夫だ。むしろ、あんたらが気持ち良く飲んでくれた方が俺も都合が良いのさ」
「……ふむ。あんたがそう言うならそれに従うかね。その時が来たらいつでも言いな」
貞吉の顔を見てそれが重要なのだと感じたのだろう。男は別の話を貞吉に振った。貞吉も話に耳を傾け、時に笑い、時に酒を酌み交わしながらも、気を緩めない様に立札と利八郎を視界から外す事はしなかった。
――頃合いか。
貞吉がポンと膝を打つ。
それに気付いた大柄な男が、ゆっくりと横になる。もう一人の男に目配せをすると、貞吉はそこから立ち上がり、酒を交換する立札の前に進んだ。
「代わりがいるのか。銚子と交換だ」
淡々と職務をこなす役人に、貞吉はかぶりを振った。
「一緒に飲んでいた連れが酔っぱらっちまいましてね。申し訳ねぇが、酒と水を一つずつ、銚子に注いで欲しいんでさぁ」
役人が怪訝な顔をする。
「酒はともかく、水が欲しいなら入れ物は何でも良かろう。銚子は無限にあるわけではないのだぞ」
ごもっともで……と相槌を打ちながら、貞吉は苦笑いをする。
「いやぁ、これが困ったことに、『俺はまだ飲める!』って言って聞かねぇんでさぁ。今はもう一人が相手してるんですが、いつ暴れだすか分からんのですよ」
「おい、大会を乱す様なものは即刻退場だぞ」
役人の脅しを受け流し、指を立てる。
「仰る通りで。そこで一計を案じたんですがね」
「一計?」
「えぇ、銚子に水を注いで酒を持ってきたと偽るんでさぁ。そうすりゃ粗相をすることもないし、大人しく飲んで貰えるでしょう? なに、どうせ酔っぱらいなんだから、酒と水の区別なんざ付きゃあしませんよ」
ふーむ、と役人の神妙な顔つきを見て、更に畳み掛ける。
「このままだと開催してくれた志灘屋の旦那にも迷惑が掛かっちまうんで、それは避けたいわけですよ。折角皆が楽しんでいる所に水を指すのも悪いんでね。それなら、文字通り一人だけ水差してやろうかな、と」
そんなに上手くないぞ、と言いながらも、役人は銚子に水を注いだ。
大会を白けさせるのは勿論、志灘屋に迷惑を掛けるのは気が引けるのだろう。
貞吉は礼を述べると、酒と水の入った銚子を持ち、役人に礼を述べると歩き出した。
――ちょいと、意趣返しに付き合ってもらおうかい。
今頃は気分良くしているであろう、利八郎を目指して。
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