㉖
麓の町で翔が目を覚ましたのは、すっかり夜の更けた頃だった。儀式は一旦中止にして引き返した後、カイル達と野営地で分かれてそのまま下山したのだ。革命軍を撃退した時点で、依頼は達成している。
すやすやと眠る煉二に注意を払いながら、ぼんやりとする頭を起こそうと翔が部屋の外に出ると、窓から見えた満月が既に天頂に差し掛かりつつあった。宿の人間はすっかり寝入っているようで、風の窓を鳴らす音ばかりが鼓膜を揺らす。彼は陽菜と話したいと一瞬女性陣の眠る部屋へと向かいかけたが、すぐに思い直して宿の外へ足を向けた。
比較的価格帯の高い宿が集まる辺りな為か、もう辺りに人の気配はない。時折風に運ばれてくるのは、町の反対側にある飲み屋街で騒ぐ冒険者たちの声だ。魔境のすぐ近くとあってか、この町では日常の事だった。
特に用がある訳ではなかったが、気晴らしになればと翔は楽し気な声の出所へ向う。近づくほどに軽やかになる空気。しかし彼の足どりは重く、鉄球でも付いているかの様だ。
――場違い、かな……。
飲み屋街まで来たは良いものの、そこは、今の彼には眩しすぎた。仲間や友たちと笑う見知らぬ誰かを、まるで画面越しに見ているような、そんな錯覚を覚えてしまう。
――……帰ろう。
翔は踵を返し、来た道を戻ろうとした。
「翔君」
「……陽菜」
視線の先で微笑む陽菜に、錘の軽くなるのを感じる。
「もう少し歩かない?」
「うん」
陽菜は来た道でも、行こうとした道でも無い方向へ歩き出した。その彼女の横に並ぼうと、少し早足で追い付く。心に引っかかった何かは、風が払い飛ばした。
「気持ちいい夜だね」
揺れる黒髪を耳に掛けながら、陽菜は言う。
「……うん、そうだね」
それっきり陽菜は何も言わない。普段なら何も感じない、どころか寧ろ心安らぐ時間な筈なのに、今は何だか、居心地悪く感じてしまう。
周囲からはどんどん人影が減っていき、気が付けば、月だけが二人を見つめていた。
「あの赤くなってる辺りが山頂かな?」
外壁の上の広場に着いた時、町を眼下に見ながら陽菜が言った。淵を赤く光らせた黒い影が、星空を遮っている。
「そう、だね……」
脳裏を、遠ざかっていく友の顔が過る。
緊急時は物資の集積場所としても使われるその広場は、時間もあってか、人っ子一人いない。
沈黙で、耳が痛い。
「ねえ」
陽菜の声が、硬い気がした。
「辛いなら、帰る方法、私たち三人だけで聞きに行ってこようか?」
いつもならどんな痛みも和らげてくれる陽菜の声が、煌めく刃物になって突き刺さった。
「山頂まで行って方法を聞いてくるだけなら、翔君がいなくても、大丈夫だから」
だから宿でゆっくりしてていいんだよ、と続けられたそれは、常に比べれば突き放すような提案だ。
「…………」
すぐに返事ができない。闇の中に取り残されてしまったような孤独感が翔を襲う。
陽菜は黙したまま、動かない。
彼は、彼女がこれまで通り寄り添い、傍で支えてくれるものだと思っていた。
いや、これはこれで優しい提案なのだろう。放っておいて欲しいという人間もいるのだから、傍から見ればただすれ違っただけに見える。
しかし違う。二人はずっと互いに寄りかかって辛いことを乗り越えて来たし、互いを支えずにはいられない人間だ。
その筈なのに、陽菜は今、寄りかかろうとする翔を拒絶したのだ。
――どうして……いや、理由は分かってる。
共依存。
アルティカに指摘されたその危険性は、翔も理解している。
陽菜がそれをどうにかしようとしているのだとも、すぐに思い至った。
――だけど……。
外壁上から身を乗り出した陽菜の顔は見えない。
いつの間にか、雲まで星空にかかっている。深くなった闇が、翔の表情まで隠す。
「ちょっと、考えさせて……」
「……うん」
それっきり、二人とも何も口にしない。
無言のまま時間だけが過ぎていく。
二人が宿に戻ったのは、より一層、夜の闇が濃くなった頃の事だった。
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