㉖
彼女の言い終わるのと同時にその気配が消え、代わりに樹人からの圧力が増す。その纏う空気の静かであることには変わりないが、そこに彼の持つ木刀のような鋭さが加わった。
翔たちも意識を切り替え、最大の警戒をしたままに武器へ手を添える。
眼前に刃があった。
翔は咄嗟に身をひねり、その死を躱す。
ほんの一瞬、瞬きをしただけだった。その一瞬に、間合いを詰め切りかかられたのだ。
――速い!?
樹人はそのまま翔を盾にするようにして身を横へ滑らせ、切り上げる。
不意をうたれた訳ではないこの一撃には落ち着いて抜き放った剣を合わせるが、彼の想定していた衝撃は来ず、代わりに鋭い痛みが腹部に走った。
「翔君!?」
「大丈夫、掠っただけ!」
見ると左わき腹から臍の少し右側にかけてが装備ごと切り裂かれている。
――危なかった。無意識に下がってなかったら真っ二つだった……。
蟀谷を流れる冷たさに背筋までもが冷やされる。
「今の、『朧霞』だよね?」
煉二の[雷矢]をその場で切り裂く武神の残滓を睨みながら誰にともなく問う。
「うん。だと思う」
『朧霞』。それは翔達の学んだ『川上流』の技で、手首を使って相手の剣を躱し切り付けるものだ。受ける側からは相手の武器が自分の武器をすり抜けたように見える事を名の由来とする。もちろん他の流派にも同じような技があっておかしくはない。だから陽菜も断言しなかった。
――でも、もし川上流なら、他の敵よりずっとやり易い!
徐々に強くなる雷の矢の途切れる瞬間に合わせて翔は切りかかる。袈裟切りに振り降ろされた剣は〈神舞魂放〉の『剣の舞』に強化されており、竜の鱗すら切り裂く一撃だ。
しかしそれは柳の葉の如き剣さばきで受け流され、空を切るばかり。勢いに流され、翔の身体は体勢を崩して沈み込む。
樹人からすれば絶好の機会だ。そのまま振り上げれば、刀は翔を真っ二つに両断するだろう。
樹人は詰まらなそうな気配のままに彼の命を刈ろうとして、気が付いた。死にゆく定めにある筈の少年が、不敵に笑ったことに。
彼の身体が沈み込むのと同時に樹人の視界に入ったのは、赤銅色の柄を片手に持ち、限界の間合いで己へ薙刀を振るう少女の姿。刀ではね上げようとするが、翔の剣が邪魔をして叶わない。
水平方向の白線は反らされた樹の上体、その胸の辺りに描かれた。
更に幾条もの雷が前衛二人を回り込んで追撃をかける。
翔たちの追い打ちを嫌って後ろへ跳んでから対処しようとした樹人だが、その背中に固い感触。寧音の障壁だ。
僅かに間合いとタイミングが狂った。八割がたの[雷矢]を撃ち落とした辺りは流石武神の名を関するだけある。それでも、残り二割の与えたダメージは小さくない。樹木の肌が焦げて煙を上げ、所々が抉れている。
――やっぱり川上流だ。これなら次にどう動くか予測しやすい!
「いけそうだね!」
「油断するな! どうせまたすぐに再生する!」
煉二の正しいことを示すように、見る見る傷が塞がり、元の滑らかな樹皮に戻った。それでも翔たちの瞳から光は消えない。
この調子で押し切ろう、そう仲間たちを鼓舞しようとした時だった。
目も口もない仮面の表情が、笑みを浮かべた様な気がした。
――なんだ? っ!?
瞬きの間に樹人は刀を振り切った体勢になっており、構えていた剣が弾かれる。それが川上流の『鎌鼬』だと判断する間に一足飛びで距離を詰められた。
慌てて剣を引き戻して防御しようとすれば、樹人は両手の上下を入れ替えて横薙ぎを逆袈裟切りへ変える。
何とか反応して片足を引く翔。眼前を通り過ぎる木刀が前髪を短くする。
――しまった、この方向は!
翔へ振るったと思われた逆袈裟は鎌鼬を巻き起こし、後方で魔法の準備をしていた煉二を襲う。どうにか杖で受けた彼がその威力に吹き飛ばされるのを視界の端に確認しながら、追撃をかけようとする樹人へ切り付けた。
足止めを意図して振るったその剣はしかし、あろうことか、刀で受けられ樹人自身を加速させる力に変わる。
――噓でしょ!?
身体能力は自分たちと大差ない。だが、技量が、駆け引きの経験が違いすぎる。一合目はただ、やる気を見せていなかっただけなのだ。
寧音の障壁による助けもあって、今は煉二も凌ぎきれている。だが、二度三度と振るわれる刀がいずれ彼を八つ裂きにするのは明白だ。後ろから切りかかって止めたい所なのだが、その隙が見つからない。
――いや、隙はある。けどこれ、誘ってる。
それはまるで、アルジェ達が指導をする時のような隙の作り方だ。訓練でその誘いに乗っれしまった時は、四肢のどこかが飛ばされていた。
だったら魔法をと考えるが、煉二との距離が近すぎて迂闊に打ち込めない。
――なんであの間合いであんなに打ち刀を振れるんだ!
心の中で悪態を吐くが、どうしようもない事には変わらない。横からならどうかと問われれば、もう陽菜が無意味だと証明していた。
寧音の障壁とタイミングを合わせようにも、一瞬彼女の補助がなくなるだけで煉二の命の灯はかき消されてしまうだろう。それ程に斬撃の嵐は激しい。
――どうす、煉二?
煉二の目が一瞬、寧音の方を見た。助けを求めるような弱々しいものではない。何か意図を含んだ、理知的で力強い光だ。
「翔君、陽菜ちゃん、合図したら思いっきり遠距離で攻撃ちゃってくださいー!」
「わかった!」
「うん!」
煉二の事に関しては彼女に従うのが確実だと、二人は迷わずに了承の返事を返し、準備に入る。彼に躊躇は無い。全力だ。それを示すように、彼の剣は煌々と輝き、その威を示す。秘めた力は、嘗て聖騎士の長を打ち破った時をも上回る。
「今ですー!」
その声と同時に翔は剣を振るう。煉二と寧音を信じ切ったその一撃は、〈心果一如〉によって絶大な強化を受けて飛翔する。その特大の『鎌鼬』に並走するのは陽菜の撃ちだした光の槍だ。
両者がやがて樹人を撃ち抜くのは必定。それに留まらず、煉二までも飲み込んでしまうだろう。
しかしその未来は来ない。
寧音の言葉の直後、翔が剣を振り生きるのと同時に、キンッと甲高い音が響いた。寧音の障壁が初めて彼の武神の一刀を止めた音だ。これまで容易く切り裂かれ、煉二が杖を合わせる僅かな時間を稼ぐのが精いっぱいだったにも拘わらず、今、その障壁は木刀を確かに阻んでいる。それを可能とした理屈は一目瞭然だった。
――極小範囲に集中してピンポイントで受け止めてる。寧音はあそこに来るって分かってたんだ。
煉二の癖を把握し、どのタイミングでどこに隙ができるかを理解していた寧音だからこそできた神業である。もしこれが、煉二の意図的に作った隙であったならば、樹人はそれを突くことはなかっだろう。
傍から見ると大博打でしかない作戦は、寧音たちの目論見通り、当然のように成功して樹人の動きを止めた。
「[雷矢雨]!」
眼前で無防備を晒す敵に、何もしないはずがない。幾条もの雷の矢が至近より放たれ、樹人を穿ち、反対側から迫る翔たちの一撃の威力を煉二まで届けない。余波は自ら作った障壁で受け止めて、樹人の間合いから逃れる術とした。
全力を込めた反動で、翔はすぐに動けない。今追撃を受けるのは危険だと樹人を注意深く観察するが、動く様子はない。その身体は雷撃で焼け焦げ幾筋もの白煙を立ち上らせており、背中には翔の斬撃でついた深い切り傷がある。そして、人であれば心臓のある辺りに僅かに顔を覗かせるのは、見覚えのある赤の何か。
――あれが、武神の残滓樹の核……。
傷のついた様子はないが、四人でならあの核を砕けそうだと翔は安心した。霊樹亀以上に圧縮されたその樹の体は、下手をすれば今の彼らではどうしようもない程に硬い可能性も考えていたのだ。
――このまま追撃、といきたかったけど、だめか。
反動から立ち直るよりも先に、樹人の傷は塞がってしまう。もう少し時間があれば今詠唱している煉二の最大魔法が間に合ったかもしれないが、叶わない。その詠唱は『鎌鼬』によって妨げられ、魔力が霧散する。
樹人は再び煉二に切りかかろうするが、それは陽菜が許さない。舞の動きのままに後ろから遠心力を乗せた刃を叩きつけるように振るう。完全に意表を突いた一撃を、樹人は左の腕で受け、カウンター気味に一閃を返す。
柄でこれを受けた陽菜が吹き飛ばされるが、翔が体勢を立て直すには十分な時間が稼げた。弾き飛ばされるのは想定通りだったらしい彼女は宙で身を翻すと、危なげなく着地して舞を続ける。しかしその表情は訝し気で、何かが気になる様子だった。
翔は一旦距離を取り、寧音の障壁で囲った内側で煉二が[風爆]を発動する様を見つめながら、陽菜へ問う。
「何かあった?」
「うん、なんか、さっきよりも硬くなってる気がして……」
言われて思い返す。初めの、樹人をやる気にさせた一連の攻防、その時[雷矢]は樹皮にいくつもの抉り傷を作った。だが今のそれはどうだ。命中した数は比較するまでもなく多い筈なのに、表面を焦がす以上のダメージは与えられていない。
――まさか、再生する度に硬くなってる!?
そうでなくても、特定攻撃に対する耐性の獲得くらいはしている。
翔の胸の内を焦燥が占めていく。
翔の推測が正しいのならば、武人の残滓樹を倒すには先ほどと同じ威力でより多くの攻撃を集中させるか、自分が全力を込めた『鎌鼬』より数段上の一撃で以て核を切り伏せるしかない。
兎も角まずはこの情報を共有しなければと、樹人から意識を逸らしてしまった。
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