㉖
再び応接間に静寂が訪れた。誰もが黙り込んで何も口にしない。翔がちらとアリスと呼ばれた侍女の方を見ると、彼女は目を伏せ、ただ佇んでいた。
「……確実に大切な人たちを助けるか、その人たちを死なせてしまうリスクを負ってでも、全員を助けようとするか、ね」
改めて確認するように零された呟き。それに返ってきたのは、煉二の持つカップとソーサーがぶつかる音だけだ。
――陽菜は、大丈夫。どっちを選んでも、きっと助けられる。だけど……。
翔はやや彫りの深い顔で背の高い親友のことを思い出していた。彼の力は信じているが、もしかしたらという事はあるのかもしれない。もし相手にグラヴィスのような実力者がいれば、障壁系のギフト持ちとして最前線に立つであろう彼は、無事に生き延びることができるのであろうか。そんな考えが脳内をぐるぐると回り、不安を拭いきれない。
「参考までに申し上げますと、マスターは昨夜、某国の聖騎士団長に実力を合わせた上であなた方と戦っておられました」
「昨日の、アルジュエロさん……」
突然、しかし四人が驚かないタイミングで告げられたアリスの言葉に、翔は昨夜の戦いを思い出す。守りに徹し、カウンターを狙うグラヴィスと同じ戦い方を彼女はしていた。
――そうか、だからあの時、魔法を使わなかったんだ。
得心のいった翔だが、それで選ぶ道が決まったわけではない。しかし、四人がかりで簡単にあしらわれるような実力差を今から埋められるのかという迷いが彼の中に生まれた。
「どれくらい引き延ばせるか知らないけど、一か月後の開戦までに、あれに勝てるようにならなきゃいけないのね……」
「そうなんですよねー。ちょっと自信ありません……」
翔同様の迷いを彼女らも見せる。どれ程の差があるのかはっきりわからない位の大きな差を、彼らは感じていた。
寧音が再び菓子へ手を伸ばした時、不意に煉二が口を開く。
「翔、お前が決めろ」
「え?」
その理由を問う様に三人の視線が煉二へ集まる。
彼は普段の態度を変えず、淡々と説明した。
「俺も、寧音も、一番大事な相手はすぐ横にいる。朱里の相手は安全な日本だ。そうだな?」「ええ。……なるほど、そういう事」
寧音が頬を緩めてたんたんと叩いてくるのを受け止めながら、煉二はさらに続ける。
「今法王国に一番大事な人間がいるのは、お前だけ。それに、お前がリーダーだ。だからお前が決めろ、翔」
翔はじっと見つめてくる煉二の視線を受け止め、一瞬視線を斜め下へ向けてから、他の二人を見る。
「……二人は、それでいいの?」
「ええ」
「いいですよー」
返事をすると朱里はカップへ口をつけ、寧音は菓子へと手を伸ばす。
翔は手元のティーカップの中に映る自分と目を合わせ、思考の海へと潜っていく。
――もし、陽菜たちだけを助けたとしたら、雄介は俺を許さないだろうね。音成さんはわからないけど、たぶんずっと気にしちゃう。陽菜は、悲しむかな。
彼の脳裏に、特に大切な人たちだけを助けた時の彼らの顔が浮かんだ。みな一様に、悲しそうな顔をしていた。
――でも、嫌われることになったとしても、助けられなかったら意味がない……。
翔の両手に力が入り、カップの中の翔が波に歪む。
――だけど、悲しませるのも嫌だ。俺は、どうしたら……。
答えは決まらない。
ふと、視界の端にあった黒が彼の意識に入り込んできた。アリスの着ている服の色だ。
「……アリスさんは、最初から、そんなに強かったんですか?」
突然の問いかけにも彼女は動じない。
「最初から、というのが何時を指すのかは量りかねますが、スズネ様と出会った時点ではどこにでもいる一介の侍女に過ぎませんでしたよ」
淡々と答えたあと、彼女は少し間を空けてから続ける。
「ただ、あの方々に師事をなさるなら、確実に強くなれると保証いたします」
翔は再び開こうとしていた口を閉じ、沈黙する。ややあって、ありがとうございます、と礼を述べ、手に持ったままだったお茶を一気に飲み干した。
「俺、決めました」
まだ少し迷いを孕んではいるが、真っ直ぐな眼差しがアリスに向けられる。その視線に一つ頷くと、ではこちらへ、と言って彼女は歩き出した。
翔たちも立ち上がり、無言で彼女の後を追う。誰も彼の答えを問わない。
応接間の扉を抜け、濃い青紫色のカーペットに足跡をつけながら広い城内を歩く。人の気配の感じられない廊下を抜け、既視感のある広い玄関前の階段から上階へ上がり、一つの部屋を目指す。
そうして案内されたのは、城の三階。東側にある扉の前だった。
「マスターはこちらでお待ちです。どうぞ、お入りください」
閉じられたその扉の前を翔に譲り、アリスは脇へ下がる。
翔は真鍮のような色をしたドアノブに手をかけ、一度大きく深呼吸をする。それから、一気に押し開けた。
目当ての人物は、姉妹たちとその部屋の中央にあるソファに座り、本のページを捲っていた。
「決めたのね」
アルジュエロは読んでいた本に栞を挟み、〈ストレージ〉にしまう。それから立ち上がって翔に向き直った。
「はい」
アルジュエロへ向ける翔の視線にはもう、迷いはない。その部屋に向かう間に、すっかりと覚悟を決めていた。
「アルジュエロさん、お願いします。俺たちを、強くしてください! 誰も悲しませずに、みんなを助けられるように……!」
勢いよく頭を下げ、懇願する。朱里は小さくため息を吐き、煉二と寧音は微笑んでから彼に続いた。
僅かばかりの静寂。部屋の隅にある暖炉で薪の爆ぜる音が聞こえた。
「アルジェでいいわ」
その機嫌の良さそう声を合図に、スズネとブランが立ち上がる。
「コスコル、アリス、訓練着を用意してあげて。早速始めるわ」
「はい。では翔様、煉二様、お二人はこちらへ」
ありがとうございます、とアルジェへと声を張り上げ、翔はコスコルの後に続く。強い意思の宿った瞳には、もう悲しむ陽菜たちの顔は映っていない。
――絶対に、強くなる!
彼らが着替えの最中に聞いた、健闘をお祈りします、という言葉の意味を知るのは、このすぐ後のことだった。
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