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③
その夜、朱里は宿の部屋で今日の出来事を日記に書き記していた。書かれている文字は日本語だ。
「朱里ちゃん、最近毎日書いてるよね」
「陽菜」
振り返ると、陽菜が髪を梳かしていた。彼女の髪は朱里よりも長く、未だ乾ききっていない。
――髪、伸ばそうかな……。
内心でそんな事を考えつつ、朱里は日記に向き直った。
「いつ向こうに帰れるかわからないから。どうせなら、お姉ちゃんに全部話したいし」
そっか、と返事がしたきり、静寂が訪れる。朱里がふと顔を起こすと、窓に映った陽菜が大きく伸びをしていた。その向こうには、砂を固めて作った、真っ白な建物の壁が見える。
日記を書き終わる頃、陽菜と寧音が先に寝ると朱里に告げた。早々に二人分の寝息が聞こえてきて、朱里はそっと息を吐く。それから日記を閉じ、夕食の時にナイルの言っていた事を思い出した。
「願いを叶える方法は簡単ですよ。自分の血と魔力を混ぜ込んだインクで願いを記した紙を持って、試練を乗り越えるんです」
その後の話し合いで、日本に帰りたいという願いは陽菜が書くことになった。彼女が自分の願いは翔と幸せになることだから自分で叶えたい、と立候補したのだ。その為、朱里たちは自分の願いを書くことになった。
翔はまだ決まらないと言っていたが、他の二人はその場でさっさと書いてしまっていた。
今、借りた部屋の窓際で物思いにふける朱里の目の前には、彼女の血と魔力を混ぜたインクに細長く丈夫な紙、それからインクに浸してから書くタイプのペンが並んでいる。
――寧音は、煉二用の眼鏡だっけ。
ちらと後ろで眠る寧音を見る。彼女は眼鏡男子が好きだったらしい。まさかと煉二を見た時に、彼が小さく、初めはな、と言ったのには、朱里も呆れる他なかった。それでも今は、互いにあれだけ思い合っているのだから、朱里としては羨ましい限りだ。
その相手の煉二も、特に欲しいものは無いからと寧音の喜ぶ甘いものを選んでいた。
――ていうか、あれだけ甘いもの食べてるのに太らないのはどういう事なの? 全部胸に行ってるってこと?
朱里は布団に隠れた寧音の胸の辺りを睨みつける。日本人の平均と比較すれば、彼女は大きい方だった。
首を激しく振って逸れてしまった思考を戻し、自分の願いについて考える。
――もし、私が翔と結ばれたいって書いたら、どうなるのかしら……。
翔と陽菜の間で何かあるのか、もしそうなら、今の関係をそれほど壊さずに翔と一緒になれるのではないだろうか。そんな考えがぐるぐると彼女の頭の中で巡る。
――翔の心を無理矢理変えるのだとしたら、それで私は、納得できるの?
机の上に並べられたペンや紙を眺めながら、朱里は考える。部屋の明かりは既に消してあり、備え付けのデスクライトが彼女の顔を薄暗く照らしていた。
窓から見える月は既に天頂を過ぎ、夜は更けていく。しかし答えは出ない。
――もし、私が翔との事を願ったら、陽菜はどう思うのかしら? ……たぶん、凄く怒るんでしょうね。
朱里から見ても、陽菜は異常なくらいに翔の事を好いていた。それを無理矢理奪ったとなると、どれほど怒り狂うか分かったものではない。翔から離れていったのなら何も言わなかっただろうが。
――異世界なんだし、ハーレムもありなのかもしれないけど、でも、やっぱり、どうせなら私一人を見てほしい。
この夜何度目かわからない思考だった。日本人としての感覚なのか、ハーレムは、彼女には認められなかった。もしハーレムを受け入れたとしても、ほぼ確実に、一番は陽菜だ。二番目ではなく、一番になりたかった。
――陽菜を、嫌いになれたら良かったのに。
ふと朱里は陽菜を見た。もし彼女が嫌な奴だったら、こんなにも迷わなかったのだろう。だが陽菜は、彼女にとってそんな人間ではなかった。
そして何より、陽菜の横で幸せそうに笑っている翔が好きだった。
――お姉ちゃんだったら、どうするかな……。
今は会えない姉の顔を思い浮かべ、朱里はため息を吐く。朱里の姉は容姿を除けば特別何かに優れていたわけではないが、彼女が姉を好く理由はそこにない。ただ姉であるからと他の誰よりも愛した。肩の上くらいで髪を揃えているのも、態々それ用の魔道具を探してきてストレートパーマをかけているのも、陸上部に入ったのも、全部、姉と同じようにしたかったからだ。他の誰も、彼女の目に映った事はなかった。
だからだろう。今彼女は、初めてした恋に戸惑っていた。
戸惑ったまま、姉を手本にしようとして、だけどその姉が他の男に熱い視線を向けている所が想像できずに、また溜め息を吐く。暫くそうして考えていたが、答えは出ない。
――お姉ちゃんと話せたら良かったのに……。
窓の外の夜空へ向けた彼女の視線が、一筋の流れ星を捉えた。すぅっと夜の帳に一筋の線を残し、消えていく。天翔ける星、という言葉を思い浮かべ、続けて翔の名前を連想してしまって、朱里は頬を赤らめた。
――……私は、翔にどうなってほしいの? そんなの決まってる。幸せになってほしい。
それが一番だ、と彼女は独りごちる。
だったら、自分は本当の意味で彼を幸せにできるのだろうかと考えて、朱里の表情が影に隠れた。彼女の正直なところを言えば、自信が持てなかった。それほどに、これまで見てきた翔が陽菜を愛しすぎていたのだ。
そしてふと思った。だからこそ自分は、翔に惚れてしまったのではないかと。
朱里は再度、布団で眠る陽菜を見て、考える。
「……うん、それがいい」
朱里はナイルから買ったペンを特性のインクに浸し、スラスラと紙に走らせた。慣れない形のペンに多少文字を崩しながら、『アーカウラ』の共通語で願いを書いていく。
「よし」
書きあがったそこに翔の文字はない。
朱里は細長い紙にゆっくり染み込み乾いていく黒いインクを眺め、満足げに頷くと、ペンやインクと一緒に全て〈ストレージ〉へ仕舞った。
彼女は大きく伸びをして、自分の選択で間違いはないのだと胸の内に唱える。
既に月は向かいの建物で半分ほどが隠れている。明日の朝には経由地である首都カサンドラへ向けて旅立つことになるのだから、彼女ももう寝ない訳にはいかない。
薄暗いデスクライトを消し、〈ストレージ〉から出した水を数口飲んでから、彼女は陽菜の隣のベッドに入った。
隣から聞こえてくる寝息に朱里は小さく微笑み、目を閉じる。
氷点下まで冷え切った外と異なり、魔道具が快適な温度を保った宿の一室。そこに三つ目の寝息が加わったのは、朱里が布団に入ってから三十分ほど経った頃だった。
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