⑫
湿潜竜のいた広間を出立して数時間が経った。平時ならばそろそろ昼食時だ。
魔除け光石は既に見られなくなっていたが、特に強敵となる魔物と遭遇することもなく、通路がいくらか広くなっていた事もあって想定していた最速に近しいペースで進めている。
「おや? これは……」
「ナイルさん、どうかしましたか?」
不意に声を漏らしたナイルは手元の地図をじっと見つめており、すぐには返事をしない。しかし無視している風でも聞こえていない風でもなかったので、問いかけた翔は静かに返答を待った。
「間もなく地底湖が見えるようです。それなりに大きな」
「地底湖……。みんな、いつも以上に警戒していこう」
水場には生き物が集まる。加えて水中という死角から襲われる可能性も生れるため、かなり危険な状況と言っても良い。
朱里たちは地底湖という言葉に顰めていた顔を進行方向へ戻すと、先の気配を探りながらややゆっくりと足を進める。
――たぶん、あの水竜の住処ね。
両生類らしい見た目の湿潜竜を思い出し、朱里はそう判断した。実際、水竜の身体能力で警戒する必要なく移動したならば一時間もかからない距離だ。通路の広さもあの巨体が移動するのに支障はない。
そうなると、件の水竜の同族がいる可能性も考えられる。それだけはあってくれるなと願ったのは、朱里に限られないだろう。
何度か分かれ道を通り過ぎた頃、見覚えのある青い光が朱里の視界に映った。魔除け光石だ。
しかし誰一人これで気を抜く事はなく、警戒を続ける。アルジェの住む森がそうであったように、一部の【調停者】の周囲にはその魔素濃度の高さから強力な魔物が発生、生息しやすい。加えて前日の湿潜竜だ。彼女らは皆、それが湿潜竜のような化け物には意味を為さないと身を以て知っていた。
「次の分かれ道を右に行けば、地底湖が見えます」
ナイルが静かに言った。分岐路から右方へ弧を描く道の先らしい。
普段は〈ストレージ〉に主要な武器を仕舞ってナイフなどを携行している長物組も、それぞれの獲物を取り出した。
朱里は固く槍を握る手に自身の緊張を知り、こっそりと深呼吸をする。それから改めて向かう先を見た。
その通路は魔除け光石の青い光に照らされているにも拘わらず、彼女の目に黒く映る。彼女の焦点が、無意識のうちに視界にいる翔へと定められた。
「……ここから感じられる範囲には、魔物の気配はないみたい」
低く落とされた翔の声でハッとして、彼女もスキルを操る。翔の言う様に、魔物の気配を感じられない。
じりじりと壁沿いに進む六人。朱里の蟀谷に一筋の汗が滴る。
先頭の翔が首だけで先を覗いた。すぐには戻さない。視線を巡らせているらしい。
「魔物らしき影はないみたい。〈直感〉も、察知系も反応なし」
じゃあ、とだけ聞いた朱里やその後ろの仲間たちに向け、翔が相好を崩す。
「うん、ここは安全だよ」
はぁ、とそれぞれに息を吐き、脱力した。
「ふぅ、良かったですー」
「水竜の群れを相手取るのは、流石に俺もご免だったからな……」
全身で安堵を表現する寧音と煉二へ、陽菜が私もだと笑みを向ける。それから薙刀を〈ストレージ〉へ仕舞った。
「それじゃあ行こうか。一応警戒は忘れずに」
朱里たちは表情を引き締め直し、幾分軽くなった足取りで進み始めた。見える光石の数に然程の変化はないが、地底湖に近づくほどに辺りは明るくなっていく。水竜の群れと会敵せずに済んだという喜びで心の殆どを占められている彼女らはまだ気が付いていない。
先方から一際強い光の漏れているのが見えた。
――この匂い、真水じゃなくて、海水?
同時に、潮の香りが朱里の鼻腔を擽った。それはつい数日前にカサンドラの街で風に運ばれていたのと全く同じものだ。
そして通路を抜けた瞬間、彼女は警戒の一切を忘れ、息を呑んだ。
読了感謝です。
明日はワクチン2回目なので、来週更新が無ければダウンしております。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!