⑲
翌朝になって朱里が目覚めると、陽菜と寧音はまだ少し離れた位置で眠っていた。その事に安堵しつつ、身支度を整える。時間にはまだまだ余裕があった。
「おはよう、朱里」
「おはよう、翔、煉二、ナイルさん」
「ああ、おはよう」
「おはようございます」
笑顔で温めていたらしいスープを渡す翔やナイルはもちろんの事、煉二にも変わった様子は見られない。今はまだ、居心地の悪い思いをしなくていいようだった。しかしすぐに状況は変わってしまうと朱里も分かっている。陽菜たちが起きて以降の事を考えて、彼女はそっと溜め息を吐いた。
食欲の湧かないまま無理矢理に食べていたパンがなくなる頃、陽菜と寧音のいる方からごそごそと動く気配がした。慌てて朝食の残りを口へ放り込む朱里。そんな彼女へ翔たちの怪訝な視線が向く。かと言って弁明するのも不自然だと無視を決め込んでいた。
「おはようございますー」
「おはよう、みんな」
二人の挨拶が聞こえたのは最後の一口を朱里が飲み込んだ時だった。各々が挨拶を返す中、朱里はおはよう、と素っ気なく言って立ち上がった。
「あ、朱里ちゃん……!」
声を詰まらせながら陽菜が朱里を呼んだ。しかし朱里はこれを無視して、通路の方へスタスタと歩いて行く。
「朱里?」
「先の方見てくる。声が届いてすぐ戻れる所までしか行かない」
不思議そうに聞いてきた翔へは、そう答えた。一連の様子を見て煉二が蟀谷を抑えているのも見えていたが、気づかないフリをした。
片道二、三分程の先行偵察から戻ると、五人は既に用意を終え、出発を待つばかりという様子だった。これ幸いにと自分の定位置、陽菜から遠い列の最後尾につく。
「おまたせ。とくに魔物の気配はなかったわ。外まで真っ直ぐいけそう」
「ありがとう。それじゃあ少しペース早めで抜けてしまおうか」
出発してもちらちらと後ろを見てくる寧音のことは無視していた。彼女には何も思うところの無い朱里だったが、今は昨夜の事で騒ぎ立てて欲しくなかった。
――せめて戦闘中くらいは、いつも通りにしないと……。
なけなしになってしまった理性で考えるのは、心に従う事の危険性。そして残りの感情的な部分で、昨日の夜の事と合わせて何か言われるかもしれない。その上、翔に失望されてしまうかもしれない。そう考えた。
再び見られるようになった苔の光を頼りに進むこと暫く。前方から風が流れ込んでくるのを朱里たちは感じた。肌に触れるそれは潮の香りを運んでおり、地上が近いことを彼女らに知らせる。多分に水分を含んでいるのは洞窟内と変わらないが、淀んだ空気がかき混ぜられて久方ぶりの清涼感が辺りに漂った。
――やっと外ね。
朱里はそっと息を吐く。自身の鬱屈とした想いも、吹き込んでくる海風に少し晴らされるようだった。とは言え、昨晩の事が夢幻と消えてしまうわけではない。心の底に残った淀みは、依然そこにあるままだ。
「洞窟の出口まで言ったら俺と朱里で周囲を探るよ。その間三人はナイルさんの傍で待機ね」
「うん」
「わかりましたー」
返事をした二人の後ろで煉二も頷く。
上り坂になったカーブを曲がり切ったのはその直後だった。十メートルほど先まで白い光が差し込んでおり、視界の中央にあるアーチ型の白点に朱里たちは目を眩ませる。腕で庇った目が視力を取り戻した頃、視界いっぱいに濃い緑が広がっていた。
「熱帯雨林……?」
呟いたのは朱里だった。実際には地球の熱帯雨林ほど降雨量が多いわけではないが、風景としては似ている。足元をシダ植物などが覆い、上を見上げれば太さの様々な木々がどこまでも伸びて空を隠す。木々の隙間から差し込む光はまばらで、しかし洞窟から出たばかりの目に辛い程度には明るい。
ただ一点、明らかに地球の常識では考えられない特徴がその地を高位の【調停者】の住まう土地だと示していた。
「その辺って陽樹だよね?」
「うん。これだけ陰樹が生い茂ってるのに、背の低い陽樹もいっぱい。異世界って感じだよね」
翔の問に、陽菜はぐるっと辺りを見渡して言う。ここが地球であれば、森は初めに成長が早いが多くの陽の光を必要とする陽樹に覆われる。そうして影の目立つようになった地上で成長の遅い代わりに少ない日の光でも育つ陰樹が少しずつ数を増やし、やがて先に育った陽樹と徐々に入れ替わって陰樹ばかり見えるようになるのだ。
だが魔力によっても成長を可能とするアーカウラの植物たちは違う。今彼女らのいるような魔素濃度の高い土地ならば、例え陽の光が少なくても陽樹は十分に成長できた。
「っと、ぼーっとしてたら危ない。朱里、行こう」
「ええ」
朱里が暫く味わっていなかった地上の森の清々しい空気で肺を満たしていると、ハッとしたように翔が声を上げた。実際にはスキルが自動で警戒してくれてはいたが、それだけでは相手次第で不意打ちを受けてしまう事もある。洞窟内ならともかく、密林なら猶更だ。
陽菜たち待機組も、洞窟内まで下がって警戒を強くした。
「道はもう残ってないわね」
「まあ、百年じゃきかないくらい放置されてるから仕方ない。とりあえず、魔素濃度の濃い方に真っ直ぐ言ってみよう」
「了解」
目指すべきは風龍フーゼナンシアであり、その風龍こそが魔素の発生源だ。そういう意味ではわかりやすくて助かったと、彼女らは内心で思う。アルジェの住む森のように、災害と言うにも生ぬるい強大な魔物たちの跋扈する密林を彷徨うのは避けたかった。
翔が先頭に立って愛剣で枝葉を払い、その後ろで朱里が方位磁針と同じ効果を持った魔道具を使って方角を確認しながら進んだ。
「問題なさそうだね」
「そうね。この辺りにはあまり魔物がいないみたい。少なくとも率先して襲ってくるようなのは」
五分ほど進んだところだった。二人の索敵能力を上回るような相手ならばいたかもしれないが、それを考えてもキリがない。
「それじゃあ戻ろうか」
「……ええ」
もう少し進もう、一瞬そう言いかけた。本当はもう少し翔と二人でいたかったのだ。それが先行偵察であっても。しかしそんなことを言ってしまっては不審がられるし、そうする理由を彼に説明できる筈もない。
翔に落胆を悟らせないよう直ぐに振り返って、朱里は来た道を戻った。
二人が洞窟の前まで戻ってくると、気配に気が付いたナイルたちが先に洞窟の中から出てきた。
「問題なさそうだったのでこのまま行きます。ナイルさん、方角の確認をお願いします」
「分かりました」
翔とナイルがそんなやり取りをしている横で、朱里は自分に刺さる三つの視線に居心地の悪さを感じていた。
寧音の不安げな視線。煉二の困ったものを見る視線。そして陽菜の、何か言いたそうな、しかしどこか気を使った視線。
幸い直ぐに出発することになったため、それらの視線に晒される時間が長くなかった。それでも、朱里の中に苛立ちを募らせるには十分だった。
――分かってるわよ。私が悪いのは。
仲間の視線に苛立ち、そしてそんな自分に苛立つ。そうして狭まった心が、仲間の視線に対する苛立ちをより一層強める。悪循環だった。
その苛立ちをぶつけられる道中の魔物たちからすれば、知った事かと文句を言いたい話であろう。
朱里たちにとって幸いなことに、ここまで出会った魔物はAランク以下だった。苦戦はするものの、単体であれば何の問題もない。だからこそ、朱里は自身のストレスを一方的に叩きこむことが出来た。その気迫は災害級の魔物を怯ませるのに十分なものだった。
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