遅くなりました。先週は執筆時間をとれなかったです。
㉒
準備を整えた朱里たちは、翔の先導で更に森の奥へ分け入っていく。彼女らの間に流れる空気はいくらか弛緩していた。しかし緊張感が完全になくなったわけではなく、朱里自身、一抹の不安を感じている。
そんな中、周囲からどんどん獰猛な気配が減っていく。アルジェの屋敷のように結界が張ってあるわけではなく、魔物たちが本能でとった選択の結果だった。
より一層植物たちが生い茂り、あたりが暗くなる。風龍はアルジェ達のように自然と漏れ出る魔素の量を調整してはいないらしい。一帯の魔素濃度は朱里でさえ息苦しいほどだった。
――【調停者】って、本当に化け物ね。ただそこにいるだけでこんな環境を作っちゃうんだから。
それを理解していたからこそ聖国はアルジェと真面に戦う事を諦め、朱里たちを囮にしたのだ。彼女に納得することなど出来るはずは無いが、その化け物を相手にどうにか自分たちの意思を貫こうとしたことだけは賞賛に値するとは考えられた。
空気が軽くなったとはいえ、会話のできる状況ではない。無言のまま六人は進んでいく。朱里が後ろからナイルの様子を伺うと、どこか心浮かれているように見えた。
――もうすぐ、か。
朱里の脳裏に、自分の書いた願い事が過る。書き換えてしまうのなら、今だった。
鼻を突く濃い緑の匂いすらも感じなくなった中で何度も浮かべるのは、姉の顔と、翔と陽菜が一緒に笑う姿。姉に何と言われるかと胸を痛め、二人の姿が心を締め付ける。と同時に、混じりけの無い幸せそうな笑顔は、朱里の中の暗雲を少しだけ晴らした。
――本当に、陽菜を嫌いになれたら良かったのに……。
それが彼女の本音であり、答えであった。
陽菜を嫌いになれない。酷いことを言ってしまったとしても、陽菜は大事な友人だ。負けたくないけれど、失いたくもない。彼女はそれを改めて確認する。
少し身体をずらし、前の方にいる陽菜を見た。綺麗な濡れ羽色の長髪は薄暗い森の中でなお確かな存在感を放っており、女の朱里からしても見惚れてしまうものだ。その髪が白い巫女服の上で一瞬振るえ、揺れる。
何かあったのかと身構えた朱里も次の瞬間に同じものを感じ、納得した。森の奥、朱里たちの進む方向から、何か強大な力の持ち主が近づいてくるのを感じたのだ。あまりに強大なそれは、彼女たちに全容を推し量れるようなものではない。ただ一つわかるのは、その感覚に襲われたのが初めてではないという事。
「アルジェさんに初めて挑んだ時以来ですねー……」
いくらか緊張を孕んだ声が前から聞こえた。
「そうね」
自分の口から出た返事も同様だと気づく。最悪でもアルジェからもらった指輪を見せれば敵対することは無い筈だと分かっていても、本能が恐怖するのを止められなかった。寧ろ当時より数段強くなった今だからこそ、その恐怖が大きくなっていたと言った方が良いのかもしれない。
辺りを渦巻き始めた風に、朱里は生唾を飲み込む。そして風龍という言葉をそっと呟いた。
元Bランクに過ぎないナイルは、きっと以前の自分たちと同じ状態のはずだと朱里は視線を彼へと向ける。その足は無意識に竦み、魔力の圧力に心を折られそうになるのだ。
翔も彼女と同じことを考えたのだろう。明らかに歩む速度が遅くなった。
「ナイルさん、ゆっくり慣らしながら行きます。幸い、あちらは待ってくれているようなので」
「は、はい。すみません」
ざわざわと風に揺れる森の木々。それに合わせて、木漏れ日がちらちらと煌めく。まるで森全体がフーゼナンシアの下まで手招きしているようだった。
やがて、前方に明るく照らされた広場が見えた。木々の隙間からでは視界が限られ、風龍の姿は見えない。巨体を予想していた朱里はその事を訝しむ。もしかしたらこの先にいるのは、風龍フーゼナンシアとは別の存在なのかもしれない。そんな不安が募る。
――大丈夫。だとしても、こっちに敵意は無い、筈。
不安も相まって遅々として縮まらない広場までの距離は、少しだけ、朱里の心を苛立たせた。
広場に到着するとそこは、燦燦と陽の光が降り注ぐ楽園のような場所であった。広々とした空間を芝生が覆い、不規則に並んだ花々が彩る。その合間を飛び交うのは煌めく蝶や蜂、そして小さな鳥の姿をした何かだ。周囲の木々からは美しい鳥たちの歌声が聞こえてくる。
中央を見ると、複数の木が捻じれ、絡まり合って一本になったような不思議な巨木が鎮座していた。曲がりくねりながら天を突くそれの葉が爽やかな風に揺れ、ざわざわと音を立てる。
朱里たちはその光景に目を奪われ、巨木の存在感に息をのんだ。感嘆の言葉を発する事すら忘れ、危険な密林の中に突如現れた楽園の姿を決して忘れまいと、感じ得る全てを脳へと刻み込もうとした。
「漸く来たみたいだね」
だからだろう。突然聞こえたその声に死を覚悟し、身を竦ませたのは。それは敵意のかけらもない、唯の呟きの筈だった。にも拘らず、朱里たちの全身からどっと汗が噴き出る。
――何でこんなのに気づかないの!? ただ喋っただけでこんな風になるやつよ!?
声の聞こえた方へ瞳孔の開いた眼を向けると、件の巨木の根本で上体のみを起こし伸びをする青年の姿が見えた。彼は翡翠色の強いくせ毛を無造作に払うと、朱里と同じく肩の少し上まであるその髪を揺らしてにこりと笑う。
その恰好は袖の膨らんでいる白いシャツに青碧色の太いパンツ、そして暗い茶色の木靴という非常に楽そうなものだ。シャツは腰のあたりで革のベルトを使って絞られていた。
立ち上がったその青年は意外に華奢で、翔よりもいくらか背が低い。
「あんまり遅いから、ちょっと昼寝してたんだ」
彼はその柔らかい目元がはっきり分かるほどにまで歩み寄りながら、そう告げる。その距離まで近づくと、髪と同じ色の透き通った瞳が蛇のように縦長になっているのが分かった。
その優男は飄々とした雰囲気を隠そうともせず、朱里たち一人一人を好奇の目でじっと見つめる。
――うん? 今、一瞬……。
そしてナイルを見た時、一瞬だけ目を見開いた。少なくとも朱里の目にはそのように映った。
その意味を考えていた朱里だったが、はっとして、今はそれどころではないとナイルの前に出る。優男の正体をなんとなく察しつつも、彼女は自分の護衛という役目を果たそうとした。
キッと睨む朱里の視線を意にも介さず、彼は満足したように頷く。
「君たちがアルジェの言ってた子たちだね。なるほどね、彼女なら気に入りそうだ」
「……一応聞きます。あなたは、誰ですか?」
そう聞く翔の声には明らかな緊張が見えた。優男は楽し気に目を細めると、何でもないようにその問いに答える。
「おっと、自己紹介がまだだったね。お察しの通り、僕はフーゼナンシア。フーゼって呼んでくれたらいいよ」
それは朱里たちの探し求める、風を司る龍の名であった。
やっぱり、と思ったのは朱里だけではないだろう。フーゼの存在感は気が付けなかったのが不思議な程圧倒的なものだ。アルジェと並び立つ存在だとしても何ら不思議はない。それでいて掴みどころがなく、そこにあるのが当たり前のような気配だと朱里は思う。
――風の龍、ね……。
どれほど離れているかもわからない絶望的なまでの実力差をその肌で感じながら、ナイルだけは守らなければと朱里はこっそり深呼吸をする。何がきっかけで逆鱗に触れるか分からないのが怖かった。
そんな朱里たちの様子をじっと見つめていたフーゼは、さて、と零して踵を返す。
「君たちが何を求めてきたのかは分かってるんだけど、様式美って大事だよね」
背中を向けたままフーゼはそう言って、二十メートル程離れた位置まで足を進める。そして再度振り返った彼へ朱里がどういう意味かと問いかけようとした時だった。
風が止んだ。
それまで絶えず朱里たちに清涼を運んでいたそれが、突如として止んだのだ。風の生まれる島と名付けられた地に有るまじきその現象に、否が応でも空気の変化を感じてしまう。
「っ!」
かと思えば、突風が吹いて朱里たちの髪を巻き上げた。その風はどんどんと強くなり、木々の揺れを大きくしていく。ざわざわと森がざわめき、渦の中心であるフーゼへと花々や木々、土の香りを集めた。
目を見張る朱里たち。
その視線の先で、瞬く間にフーゼの姿が変化していく。整った顔立ちが歪み、歯は牙へと変わっていく。さらに翡翠色の龍麟が肌を覆い、指が鋭い鉤爪へと変化して背中から蝙蝠のような翼が生えた。人の身体が長く大きく変化していくにつれ、服は堅い鱗に変化する。そうしてそこに現れたのは、蛇のような身体に六対の翼、六対の腕を持った巨大な龍の姿だった。
翡翠の龍は深い緑の瞳で朱里たちを見下ろし、思念を飛ばして語りかける。
「勇敢なる人の子らよ、君たちは僕に、何を求める?」
朱里はその問いに、すぐに答えることはできなかった。
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