㉖
その竜は長い首にクジラに似たヒレを持つ、首長竜のような姿をしていた。氷を思わせる澄んだ空色の体皮は蒼玉色の鱗に覆われ、同じく深い青の水晶質な鬣が煌めく。朱里たちを映す瞳は紅玉のようで、星々の光を遮る影の中明々と輝いていた。
揺らめく竜の髭とは反対に、朱里の精神はピンと張り詰める。彼女は彼我の存在を隔てる断崖絶壁のような格の差を、全身で嫌と言う程感じていた。
本人も知らずに、喉がごくりと音を立てる。
それが引き金になったわけではないだろう。頭で理解するよりも早く、彼女たちは武器を振るい魔法を発動していた。
朱里の『翡翠』と翔の『鎌鼬』が夜闇を切り裂く閃光と衝突し、遅れて陽菜と煉二の魔法が追撃する。しかし閃光、蒼玉の竜が放ったブレスは迎え撃ったそれらをいとも容易く呑み込んで寧音の障壁にぶつかった。
しかし障壁の稼げた時間はほんの一瞬。心臓が一つ拍動する間にパキパキと水たまりの表面に張った薄氷を踏みぬくときのような甲高い音が朱里たちの耳に届く。
「跳んで!」
硬直しきった朱里の身体を動かしたのはそんな声だった。足にあらん限りの力を込めて左右へ跳ぶ彼女たち。直後、ガラスの割れたような音が星空に木霊した。
朱里は遅れてきた衝撃に吹き飛ばされ、濃紺の土煙を上げながら槍の柄も使って静止する。
「くっ……!」
殆ど一切の溜が無かった。竜の持つ、竜を絶対者たらしめる権能の一つだ。
「試しの蒼竜、S⁺ランクの上位竜だ! 水と氷の魔法に注意!」
上位竜としては低いランク。それでも、これまで朱里たちが戦ってきた中で最高のものだ。一人では逃げて生き延びる事さえできるか怪しい、そんな災い。だが朱里たちの心を染めるのは絶望ではなかった。
「いつも通りいくよ!」
「ええ!」
「はいー!」
気合を込めた声を返す朱里と寧音。煉二と陽菜は既に動き出している。
「疾く奔れ、[雷矢]!」
雷の矢は試しの蒼竜の顔面目掛け飛翔する。当然躱されてしまうが、続けて二本三本と駆け昇る雷光はその紅の瞳を晦ました。
その隙に前へと出る翔と朱里に力を与えるのは、陽菜の〈神舞魂放〉だ。舞うのは、『剣の舞』。多少守りを堅くした所で彼のブレスには通じない。ならば攻めるしかないというのが言うまでもなく一致した彼女らの考えだ。
空を悠然と泳ぐ蒼竜の周囲にいくつもの障壁が現れた。蒼竜が訝しむ間も与えずそれへ向けて前衛二人が跳び、上下に分かれたどちらを追うか竜の迷う間に一気に距離を詰める。
まず斬り付けたのは翔の名もなき不壊の剣。星の光を受けて真っ白に輝く剣閃はしかし、突如敵の腹を覆った氷の鎧に阻まれた。それでも〈心果一如〉で十分な強化を受けていた一撃はその鎧を真っ二つにする。
試しの蒼竜からすれば想定外の事態だ。朱里を睨んでいたその視線を翔へと移さざるを得なかった。見開かれた瞳に短髪の少年が映る。
それでも朱里から意識を逸らさなかったのは海底洞窟にいた湿潜竜と格の違うところか。顔を翔に向けたまま朱里の眼前にいくつもの氷の槍を作り出した。
「[雷矢]!」
だがそれらが射出されることはない。その前に閃光が全てを飲み込んだ。直後、蒼竜の背中に鋭い痛みが走った。銀光と共に深紅が飛び散り、堅牢なはずの竜麟が切り裂かれたことを示す。
「クルァァァアア!?」
甲高い悲鳴。と同時に、蒼竜は身体で円を描く。
「くっ!」
「翔! 朱里!」
咄嗟に武器を盾にした二人だが、空中では勢いを殺せずに広場のギリギリまで吹き飛ばされた。
「こっちは大丈夫! 朱里は!?」
「平気よ! それより、コイツめちゃくちゃ堅い!〈神狼穿空〉でもあんまり深く入らない!」
腕に残る痺れを煩わしく思いながら再度上空へと視線を向ける。そこにあったのは、今にも飛来しようとしている氷の矢の雨だ。咄嗟に逃げ場を探して周囲へ目を向けるが、広場全体に向けられたそれを避けるスペースはない。とは言え一つ一つに込められている魔力はそれほど多くなかった。
――これなら弾ける!
仲間たちも大丈夫なはずだと判断し、黒い槍の柄を両手でしっかりと握り直した。氷槍が動き出したのはこの時だ。雨あられと降り注ぐそれらを時に躱し、時に槍で弾いて捌いていく。
――みんなは……。
ちらりと視線を向けると、寧音が角度をつけた障壁で自分と煉二を守り、翔は朱里と同じように全ての魔法を捌いていた。そして陽菜は、雨に合わせて舞い、ひらりひらりと躱している。
「朱里! ブレスだ!」
煉二の声に彼女が蒼竜を見ると、確かに長い首を後ろへ引いて何かを吐き出そうとしている。直ぐに回避行動をとろうとするも、勢いの増した雨がそれを許さない。
――やばい!
「朱里ちゃん!」
死ぬ。そう思った次の瞬間、いくつもの光の矢が朱里の左方を通り過ぎた。
――陽菜、ナイス!
心の中で礼を言い、左へ跳ぶ。ブレスが先ほどまで朱里のいた場所を貫いたのと殆ど同時だった。蟀谷を伝う汗を感じながらほっと一息を吐く。
「まだ!」
はっとなって上を見る間もなく、朱里は〈危機察知〉と〈直感〉に従って前へ転がった。すぐ後ろから感じた空気の流れが死とすれ違ったことを知らせる。
「連射できるなんて聞いてないわよ!」
悪態を吐きながら蒼竜を睨めば、第三射が撃ちだされる直前だった。慌ててその場を飛び退くが〈危機察知〉の慣らす警報が収まる気配はない。蒼竜は分かっていたのだ。己にとっての死神に最も近い存在が朱里だと。
「朱里! 全力の〈神狼穿空〉なら倒せる自信ある!?」
「えっ? そう、ね! たぶん!」
次々降り注ぐブレスを避けながら叫ぶ。そうしている内に服が濡れてカーキ色が濃くなるのに気が付いたが、それが何故かを考える余裕はない。
「そのまま引き付けてて! 煉二! あいつを引き摺り落とすよ!」
「ああ! 寧音、障壁の用意をしていてくれ!」
「分かりましたー!」
そう言う事ならと避ける事に集中する朱里。先ほど見た[水蒸気爆発]の威力ならば確実に地上へと叩き落せると確信してのことだ。いつの間にか氷の雨は止んでいた。
――慣れてきた。これなら、まだまだいける!
ずっと同じ攻撃を避けている内に余裕が生まれ、気が付いた。今降り注ぐそれが最初に放たれたブレスではなく、高圧の水流に魔力が込められたものだと。要は湿潜竜のガスと同じだ。試みの蒼竜がもつ特性であり、竜としての権能ではなかったのだ。
とは言え、その一つ一つが致命の一撃なのは変わりない。世界が減速したのではないかと思えるほどに深く集中し、ひたすら躱す。
「行くぞ!」
「はいー!」
蒼竜が危険を察知し、標的を変えたのと寧音が障壁を張ったのは同時だった。一瞬血相を変えた寧音だったが、すぐに水流に秘められた威力を見抜き、ほっと息を吐く。果たして彼女の予想通り、ブレスが幾重にも張られた障壁を全て貫通することはなかった。
そして煉二の構築した魔法がその暴威を示す。
特大の爆発音と共に追加で張られた障壁たちまで割れる音が鳴り響き、そこに先ほども聞いた甲高い悲鳴が混じる。そして最後の一枚が割れる直前、寧音は朱里たちを一人ずつ覆う障壁を展開した。
余波を警戒していた朱里にそれが届くことはなく、代わりに見えたのは地面へと叩きつけられる試みの蒼竜の姿。上位竜としては小柄な、しかし大型トラック程もある巨体で大地が揺れる。
「よし!」
作戦通りなのは、ここまでだった。
余波が来ないと分かってすぐに〈神狼穿空〉の溜めに入っていた朱里は、自身を覆う不自然な影に気が付いた。星の光を覆うものは無いのに、自分は影の内にいる。それが示す理由は、直ぐに思い当たった。その予想が正解だと示すように、視界の上端に巨大な氷塊が映る。
――あ、ダメ。避けられない……!
試みの蒼竜は爆風に目を晦ませている隙に巨大な氷塊の魔法で朱里を狙っていたのだ。一切の加減をしない、最も基本的な〈神狼穿空〉による突き用意していた彼女は咄嗟に動けなかった。
重力加速度も味方につけて迫る氷山に、朱里はぎゅっと目を瞑る。そして、彼女の全身を氷の冷たさと灼熱の痛みが襲った。
読了感謝です。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!