店の片隅。
子猫や子犬がショーケースの中で塞ぎ込んでいるように見えるくらいには、先ほど出会った時に比べ、俺たちを包む空気は沈んでいた。
悠は、丸まって目を閉じている猫を見ている。
ふと、神妙な面持ちで、
「談話部なんだけど……なかった」
驚くべきことを抜かした。
「は!? いやさっきお前――」
「談話部のことは、新設される部を三枝先生に訊いたとき教えられたんだけど、今日、生徒会に訊いたら、そんな部はない、って言われたんだ。それで三枝先生に確認したら、七緒さんが作ろうとしてる部だった、勘違いしてた、って謝られた」
「三枝先生?」
問い返すと、こちらに向き直り、
「同好会も、そんな名前のものはないって」
疑念に満ちた顔色で続ける。談話部が存在しなかったことが気になるのだろう。だが俺は先生の方が気になった。
先生がそう言ったということは、入部を報告した時、何も言わなかったのはどういうわけなのか。部が存在しないことをわかっていて報告を受けたのか。だとしたら、それはなぜだ。
「僕、禎生が七緒さんにお願いされて同好会設立の会員候補になったのかと思ったんだけど、その様子だと違ったみたいだね」
予想と事実の相違を確認しようとしているらしい。
「ああ、自分から部員になるって言った」
頷き、考えた。
入部届は部長に手渡した。それで部がないとすると、部長は届を提出しなかった、そもそも提出する気など始めからなかった、ということになる。俺は存在しない部への入部届を出したということ。それを先生に報告すれば、部がないことは知れるはず。ということは、やはり先生は、わかっていて報告を受けた、そういうことだろう。
また、部長が嘘が露見しないよう動いていたのだとすれば、俺が先生に報告することを阻止しようとしないのはおかしい。このことから、部長は報告のことを知らなかったのだと推測できる。
しばらく黙っていると、「ねえ」と言った。
「僕、考えてみたんだけど……禎生、だまされてるんじゃない? 七緒さんの普段を考えるとそうは思えないけどさ。でも、今日禎生が見た七緒さんはいつもと違ったんでしょ? だったら、それが七緒さんの本性で、禎生は、その七緒さんにだまされてるって、そう考えられないかな?」
懇懇と言い、身を案じるように見つめてくる。もしかしたら悠は、俺がだまされたことを少なからず自分のせいだと思っているのかもしれない。
「お前の言う、普段の部長が猫かぶってると?」
「うん。僕なりの推論でしかないけど……」
つまり、部長は悪い人物で、俺を利用している、と言いたいらしい。
「禎生に頼まれて部長さんのことを調べている時、七緒さんと会って話したんだ。その時も、あの髪型でメガネかけててさ。七緒さんだと知らずに話しかけたんだ。で、質問した。『談話部について調べてるんですけど、七緒水月さんのことどう思いますか?』って。こういう時、普通ならどう答えると思う?」
「まあ、私が七緒ですけど、とか」
自分のことを訊かれれば、そう答えるのが普通だろう。
「だよね。けど、七緒さんは、そう言わなかった。『興味ありません』って言っただけで、自分だとは言わなかったんだよ」
訴えかけるように力説する。それを見ていると、このことも嘘偽りじゃないと思えてくる。
「なんで嘘ついたんだ?」
それだけじゃない。部長は髪型を変え、眼鏡を掛けてまで正体を隠そうとした。なぜそこまでする必要があったのか。
「わからない。わからないけど、あまり褒められたことじゃないよね」
だましきるなら別だが、校内で名の知れている部長はそうはいかない。すぐにばれるだろう。なら、折を見て正体を明かす気でいた、ということなのか。
「部を作るために俺をだましたってことか」
でも、部を作るためにだましたのに、自分から辞めていいだなんて言うだろうか。他に目的があるならわかるが。
絡まった糸を、なんとか解いて端緒を開こうとしていると、
「理由はわからないけど、辞めた方がいいんじゃない?」
窺うように言ってきた。それを聞いて思う。……辞める、か。部長には辞めてもいいと言われたが、どうするべきか。客観的に見れば、辞めるべきかもしれないが……。
「だまされてると思うなら、早く辞めた方がいいよ。言いにくいなら、僕が七緒さんに言うこともできるけど……」
保護者のごとく心配する悠を見て、図らずも笑いそうになってしまった。
「いや、大丈夫だ。それくらいは自分で言える」
そこまでされてしまったら、ただのヘタレだ。それに心配しすぎだろう。
答えると、「そっか」と少し肩を落とした様子になるも、
「とりあえず、あまり待たせるのも悪いから戻ろうか」
いつもの表情でそう言った。
◆
部長のところへ戻ってすぐ、悠が前に出た。
「すみません。待たせてしまって」
愛想笑いを作り、腰の低いところを見せる。
部長は悠の顔を見て、
「いえ、大丈夫です……」
しおらしく笑う。スカートの前で軽く手を握り、ほんのりと赤い目を垂れさせている。
それを確認してか、悠はぎこちなく喋りだした。
「えーっと……、禎生って変わってるから、相手するの大変でしょう? さっきもあんなこと言ったりして……」
「そんなことありません」
様子見の言葉に、軽く首を振って否定する。すると気まずそうな顔で、
「そ、それならいいんですけど……。ま、まあ、禎生のことで何かあったら、僕に相談してください」
悠は部がないこと、部長が正体を偽ったことを知らないつもりで話を進めているようだ。俺が自分でなんとかする、と言ったからだろう。
一思案していると、
「仲がいいんですね」
人形のような端正な笑み。その顔が、また泣き出しそうに見えたのは、自分だけだろうか。
「ははは……、それほどでもないですよ。ただの取引相手みたいなものだし。……じゃあ、僕、親に買い出し頼まれてるんで」
距離感のある照れ笑いを見せ、こちらに顔を向けた。
「じゃあまた」
ごめんね、と言うように手を挙げる。
「お、おう……」
そのせいか少し上ずってしまった。
返事をすると、悠は背を向けて歩き始める。
「さようなら」
首筋に風を感じながら、人混みに紛れていく影をひとしきり見つめた。
お互い顔を合わせることもなく、地面を見つめたり、よそを向いたりする。それを数十秒は続けたかという頃、遂にこちらが耐え切れなくなって、口を開いた。
「えっと……部長、これからどうします? もう遅いですし、帰りますか?」
口が錆びているのかと思った。それだけ、目の前のことが受け入れられていない、ということかもしれない。
部長はゆっくりとこちらを向き、どこか思いつめた様子で見上げてきて、
「はい……悪いんですけど、今日はこれで帰ります。……ごめんなさい」
謝りながら頭を下げてくる。それを見て、
「わかりました。じゃあここで」
仕方ないか、そう思いながら答えると、
「……ごめんなさい、さようなら」
今度は慌てたふうに言って、頭を上げる前に歩き始めた。今まで全く違和感のなかった後ろ髪を揺らしながら。まるでそれを引かれ、無理矢理に振り解いて行くように。
俯いたまま逃げるように足早に去って行き、そのまま人混みに紛れて見えなくなってしまう。
アーケードの日覆い越しに低い空を見つめ、ふう、と一つ息を吐いてから、
「どうすっかなあ……」
杳として明かりの差さない鈍色《にびいろ》に柵のような蟠りを覚えて、独り言ちた。
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