会計の時は大変だった。
店長は「サービスだ」と言って聞かないし、部長は部長で「払います」の一点張り。終いには払うの活用形まで言い始める始末で、「払われるのがいやなら土下座してください」なんて言い出し、マスターが「よし」と本当に膝を突き始めた時は焦った。
結局、店長に「二人分は悪いですから俺にも払わせてください」と頼んで聞き分けてもらった。ちょうど二人の代金が同じだったので、割り勘ということにすればいいと思ったのだ。
「そんなに払いたいなら払えばいい。体でも何でも使って」などと、部長の方まで聞き分けがよかったのは不思議だったが、気まぐれなのか、それとも何か下心があるのかはわからなかった。
当初は部長の奢りだったので、もったいない事をしたと言えば違いない。だが、マスターを土下座させてしまった時の、如何ともし難い気まずさを味わうよりはましだと思った。
勘定の後、部長が出ていき、俺も続こうとしたところ、
「おい、兄ちゃん、名前は?」
レジカウンターから声がかかった。
兄ちゃん? 兄ちゃんって誰? 俺そんなデカイ妹、持った覚えないけど。俺が妹と認めるのは、「お兄ちゃん大好きっ!」って飛び込んでくる天真爛漫なロリっ娘か、「にいちゃん、今日暇だったら遊びにいかない?」と控えめだったり、軽かったり、強気だったりと色々な性格で誘ってくるアクティブシスター達か、「兄貴、また私のプリン食べたでしょー!? もう! 許してあげるから今度おごってよね!」などと「だろ・やる」口調でもよい、テンプレなツンデレを見せつつ、さりげにスキンシップを取ろうとする歯磨き合いっこなんかがしたくなるアスリート系シスターか、王道の引っ込み思案な、ウィスパー・ボイスで誘惑してきそうな庇護欲マックスシスターだけだけど。
「志津馬です」
「人の名前を訊く時は、まず自分から名乗るべきじゃありませんか?」
そう言うやいなや、マスターは鈍く光る得物を手に襲いかかってきた。
「いい度胸じゃないかい兄ちゃん。ちょっとその胸の中、見せてもらおうか!」
とかそんなことになりそうで怖い。ドスの利いた声で叫びながらドスをドスッ! みたいな。舞妓さんがやるとちょっとシュールかもしれない。
「今からあんさんの胸にこのドスをドスってするんどすえ。ほな」(京都弁のイントネーションで読んでね)
ドスッ!
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
てな感じ。……シュールどころか逆に怖いどすえ。
「シヅマ、これみいちゃんに渡しといてくれ。すぐには渡すなよ、あとでだ」
裏釘を返しながら札と硬貨を手渡してくる。それを見てすぐに事情を察した。
「これ、部長のお代ですか?」
部長のおふざけに対するお代なら、高すぎて突き返す額だ。「私を手篭めにする気か! 脅しでも笑えんよ! (池田さんボイス)」って。恐ろしくてとてもそんなことできないけど。
「こうでもしないと奢らせてくれそうにないからね。頼んだよ」
すんなりした手足を何気なく動かして、例のモデルポーズでお願いしてくる。
頼んでいるつもりだろうが、言われている俺は完全に下っ端の気分だ。それに俺に頼まれても困る。マスターでもできないことを、出会って一日の俺にできるはずがない。その気にさせたいなら、「お前を信じる私を信じろ!」とか気の利いたこと言ってほしい。そしたらアネキの代わりに爆発してやるから。アニキの死因ってそれであってたかしらん。
「わかりました。やってみます」
でも断れない。怖いから。だって、入店してから一度も目を合わせられていないくらいこわいんだもん。今だって、必死に顔の横の、レンガの縁が欠けてるところ凝視してるくらいだし。餌付けされたせいで最早恐懼の域ですこれ。
「いいかい、渡すのは別れる直前にするんだよ?」
サイコキネシスが発動しそうな表情で念を押される。
「わかりました」
頷き返してから、もう一度「ごちそうさまでした」と挨拶し、ドアに向かった。
「また来な」
という声を背に受け、店から出ると、部長は一人で夕日を仰いでいた。例に違わず、腕を組んで仁王立ちで。
ふいに。
「よし、走るか……」
「やめなさい」
やさしく諭した。
すると向き直り、
「君の財布に入っている余剰金だが、私に渡す必要はないぞ」
またぞろ急に話題を振ってくる。でも今回のそれは見当がつくものだった。
(なぜそれを。もうバレたのか……)
「今日は私の奢りだからな。それを君が渡さなければ、私は君に奢る事ができる」
……まさか。マスターが必ず勝つと言っていたのをそこまで見越して? 俺のお代と額が同じだったのはそのため? 部長とマスターの言い合いに俺が割って入るのを予想してた上、店長が俺を使うこともわかっていたと? あの時、妙に素直だったのは……。
それが本当なら、部長を見る目を改めるべき、なのだろうか。
「なにもんだあんた」
頭が多少回る、か。そうでなければ、そこまですることはできないだろう。少なくとも“俺”には無理だ。よく知らない人と喫茶店に入り、そんなことにまで思考を割く余裕はない、と思う。
「その問いにはベタなセリフを返そう」
至極真面目に、しかしどこか萎えた様子で答えた。
またわけのわからないことを……。そう思いながら、諦めることにした。仕方ない。マスターにはああ言われていたけど、やっぱり無理だ。このお金はまた今度来た時にマスターに返s…………こわいお。
「でも部長」
「ん?」
これだけは言っておかないといけない。部長の今後のためにも。
「盗み聞きは良くないです」
きっぱりとそう言うと、
「ごめんなさい」
深々と頭を下げた。
太陽に向かって。
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