今にも零れ落ちそうになる眼球を瞼で抑えつけ、瞬きをした。
瞳に映る景色は変わらない。一人の女性が俺を庇うようにして長槍を両手に、竜の強靭な鉤爪を受け止めている。
「早く行きなさいッ!」
瞬間、透き通った高く鋭い声が耳朶に触れ、稲妻のように走って脳まで駆け上がったそれに、体が勝手に反応する。
両手を握りしめ、すぐさま地面を蹴りつけた。彼女に背を向け背後にあった森に向かって駆けた。彼女に思うところはあれど、それも全て命あってこそ――。
木々の間をすり抜け、倒木や蔦を飛び越え、道を隔てる草を掻き分ける。
湿度の濃い空気と連立する木々の隙間から零れる陽光が汗を助長させ、息を荒くさせる。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそくそくそくそくそくそくそくそっ!」
吐き捨てるように連呼した。現世に戻って早々こんな目に合わせたあの女のせいか、それとも――。
一心不乱に疾駆したが、20分ほど走ったところで疲れが顕著に現れ、足首くらいの高さに這っていた蔓に足を引っかけた。全力疾走だった俺は促されるままに態勢を崩し、二度、三度、四度と無様に転げ回った。
「……はぁ……はぁ」
体が止まると以前と同じように空を仰いでいた。《飛竜の巣》周辺よりも二回りほど小さい開けた空間で、大の字になって倒れ込む。
短く伸びた芝生が絨毯のように敷き詰められたそこは、他の場所とは分断されているかのように空気が澄んでおり、心地いい。
森の中にいた時のような湿気はなく、吹き抜ける風が優しく肌を撫でる。
「くそぉ……はぁ……」
一向に呼吸が整わない。心臓も脈も未だに急速に動いている。これも“能力値”の影響だろうか。
瞬きを繰り返した後、肩を揺らしながらテオは再び空を仰いだ。
頭に浮かぶのはあの女――リン・エドンの姿。【五紺槍のリン】と呼ばれた勇者のうちの一人。
先が五又に分かれた愛槍【五条雷槍】を自在に操り、戦場を駆ける姿につけれらたもう一つの名は、【戦女神】。それは彼女の類まれなる美貌からもつけられていた。
その愛槍で仕留めてきたモンスターや敵の数は知れない。以前の俺と肩を並べ、時に背中を任せ任され、時に隣に立ち、凶悪な敵を共に打倒してきた戦友だ。
飛竜の影を被った彼女の後ろ姿……一目で分かった。それが”復讐”するべき相手の一人だということを。喉の渇きと一緒に這い上がる憎しみが依然と膨れ上がる。
自分が憎い。
何のために新しい道を歩もうとしていたのか、途端に靄がかかった。自分を裏切った彼女らに“復讐”するためだったはずなのに、惨めにも滑稽にも、戻ってきて早々に助けられてしまった。
彼女を背にして森を駆けた時もそうだ。自分の憎たらしさに反吐が出そうになっていた。自分が彼女らと同じことをしたという事に、激しい嫌悪を抱いた。絶対の敵を前に背を向けて逃げ出し、仲間を置いていくという、自らが犯された罪を、自分がやったことに重ねてしまう。
森に入ってから飛竜の声が耳を刺激することはなかった。あの女が上手いことやってくれたのだろう。
肩を上下させ、必死に酸素を取り込んでいると、5分も経たないうちに茂みから草を掻き分け、何かが近づいてくる音がした。警戒こそするものの、急停止した俺の身体は一時的な酸欠状態で動かない。声を漏らして呼吸することに精一杯だ。
ごくり、と固唾を飲み込み、視線を上にして茂みの方を見やる。
「ここにいたのですね」
透き通るような高い声音が風に乗って俺の耳朶に触れた。
茂みから姿を現したのはリンだ。
紺色の衣を身に纏い、長く伸びた流麗な金髪を後ろで一つに結んで、陽光を反射させている。肌を露出した四肢はきめ細かく艶やかで、不覚にも俺は頬が熱くなるのを感じた。
均整の取れた顔に埋め込まれた碧色の瞳とほんのりと桃色に膨れる小さな唇。今一度見ると確かな美女ではある……。
気息が整い、ある程度体が動くのを確認して、俺は彼女と相対するように胡坐をかいた。彼女の言葉に無言で返し、睨みつけるように目を細める。
「飛竜は落ち着いたようですので、安心してください」
「…………」
リンは俺の態度を責めたりせず、微笑してみせた。丁度彼女の槍一本分ほどの距離に座るリンは、徐に水筒を取り出して蓋を開けると、口に近づけ中の液体を一口含む。
不意に、その一連の動作に目を流していた俺の視線と水分補給をする彼女の横目がピタリと重なった。
もう一口と喉を鳴らした後、リンは俺を一瞥すると僅かに口角を上げる。
「飲みますか?」
手に持った革製の水筒を突き出してきた。
森を全速力で疾駆した俺の喉は乾きに乾き、水分を欲した口が開き、眉を動かした……が、そこで俺の理性が俺を制止する。
「……いらない。それはお前のだろう、お前が飲め」
一瞬の光を理性で覆い、俺は不貞腐れた子供のように目を逸らす。
するとリンは、呆れたのか小さく溜息をついて立ち上がり、歩み寄ってきた。彼女の不審な行動に俺は逸らしていた目を彼女に向き直し――次の瞬間、何かが無理矢理口に突っ込まれた。
「うごぉっ!?」
一瞬の動揺のあと、瞠目した目をそのままに口に突っ込まれたものを理解して暴れるのをやめた。
ごく、ごく、と口に水が流れ喉を潤し、体を癒す。
リンは無理矢理水筒の水を俺の口に流し込んでいた。
丁度三口目に差し掛かろうとしたところで、俺は水筒を振り払った。勢いよく振り払われた水筒は、中の水を周囲に巻きながら空中を回転し、芝生の上に転がり落ちる。
「何をする……」
「これは私の水です。私のものを私がどう扱おうが私の勝手でしょう? ったくもう、水は貴重なんですからね」
口元を拭いながら睨みつける俺に、リンは落ちた水筒を拾いながら言葉を投げる。
「でもよかった、それだけ元気なら大丈夫そうですね。しかし、どうしてあんなところに? この森に《飛竜の巣》があることは周知の事実ですし、地図にも記されているはずです」
「あんたこそ、この森で何をしているだよ。何故俺を助けた?」
当然の質問をするリンに対して、自分でも驚くほど俺は高圧的な態度を気取った。感謝を口にすることすらせずに言葉を落とす俺に、流石のリンも驚いたのか僅かに目を見開いた。
されど彼女が俺を叱責することはなく、姉のような優しい笑みを浮かべた。
「私の名はリン・エドン。この森に来たのは……そうですね、道すがらとしか言えませんが、あなたを助けたのは本当に偶然です。理由はありません」
「理由がない?」
「えぇ、困っている人を助けるのは当然のことです――私のことはこれくらいにしましょう。よろしければあなたのことを教えてくれませんか? どうしてあのような場所に? 私で良ければ話をお聞きしますよ」
柔らかく温かみのある調子で口にするリンだが、彼女の言葉が耳朶に触れる度に、俺は顔に不機嫌を刻んでいた。
太陽が雲に隠れ、辺りが暗くなる。木々の間を吹き抜ける風も先ほどより若干冷たいだろうか。
「俺は……」
口にするのを躊躇う。
唇を噛み、眉を顰めて意を決心して、鋭い眼をリンに向ける。
「俺はテオ。下に名はない……」
本名を隠して名乗るが、以降は言葉が出てこない。
だが、見逃さなかった。彼女がテオと言う名を耳にした時に瞳を僅かに揺らしたことを。
既に仲間としての縁を切ったとはいえ、テオという名前は彼女の心の際に触れたようだった。
そして次の言葉にリンは瞠目と動揺を強要される。
「俺は、仲間に…………裏切られた」
「――――!?」
「仲間だと思っていたんだ……ずっと一緒だと……なのにどうだ? あいつを前にした途端、全員俺に背を向けて走り出したんだッ」
胸が、心臓が、心が、気持ち悪い。胃液が逆流しそうなほどの吐気を催す。
視線を地面に落とし、眼は虚ろを映す。
「大事だったんだよ、あいつらが。それをあいつらは――」
「……」
「あいつらは、裏切った」
憎しみや憐みを通り越して俺の声から感情は消えていた。淡々と低い声で告げられる言葉は重く、同時にリンの胸を痛く締め付けたのだろう。胸に置かれた彼女の手が固く握りしめられている。
俺の声に呼応するように碧色の瞳は曇り、先までの美しい尊顔は歪む。
「私は、いえ、私もあなたと同じ目に遭ったことがあります」
「……は?」
「正確には、私はあなたに憎まれる側……仲間を見捨てた側です。あなたの名を聞いて驚きました。あなたの名が、あの人と同じだったから。あの日、私は仲間たちとある闘いに向かいました」
そう言って、彼女は空を仰いだ。遠い記憶をたどるかのように、たどたどしく言葉を綴っていく。
「――誰もが倒されることを望んだ魔王マルファスの討伐。私たちは民衆の、世界の期待を背に、立ち向かうことを決心し、マルファスの元に足を踏み入れた」
やめろ。
「私たちは、たった一人を除いて私たちは魔王という存在を軽んじていた。どこか、気が緩んでいた」
何を言っている。
「それまで相手にしてきた魔王の配下を私たちは苦難もありながらなんだかんだ倒してきた。そこに油断と慢心が生まれていたのです」
聞きたくない。
「そして宿敵マルファスと対峙した時、私は……恐怖で心を塗り潰されました」
その先を、その先を。
「暗雲が立ち込める暗黒の空。大地に盛る煉獄の炎。恐怖が蔓延する空気。そして、思い出すことすら恐ろしい絶対悪、魔王マルファス」
いつの間にか、彼女は自分の腕を掴んでいた。追憶に怯えるように、小刻みに震える体を抑えつけている。
だがそれ以上に、俺は思い出したくもない現実を突きつけられている気がして、苛立ちと焦燥を滲ませ震えていた。
聞きたくない、聞きたくない、思い出したくないと、駄々を捏ねる子供のように胸中で喚き散らす。
「私たちは敵であるはずのマルファスを前に一目散に逃げました。それだけに彼の魔王が放つオーラが尋常ではなかったのです。そして、一人だけ、私たちの中に一人だけ背を向けることなく、闘った人が――」
「――もういいッ!」
びくっ、とリンは体を震わした。
歪めていた顔をそのままにしてリンが俺に目を向ける。彼女と同じように体を震わし、両手を握りしめていた俺がどう映っただろうか……。
つい先ほど、目の前の少年は仲間に同じことをされたはず、それを想起させるような話をしてしまった。悪気があったわけではない、胸中に残る蟠りのような、贖罪ともいえる記憶の告白。
それを無遠慮に言葉にした自分に、心根の優しい彼女のことだから自己嫌悪の波に襲われているに違いない。
そうだと分かってしまうからこそ、余計にタチが悪い。
「すみません」
後に彼女の口から零れた言葉はそれだけだった。
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