次に目を開けたときには、俺はまた別の空間にいた。
言葉にすることも難しい白すぎる空間で、ここが小さい空間なのか、それとも無限に広がる巨大な空間なのか、認知することができない。小さいと言えば小さく、大きいと言えば大きい、境のない白い空間だ。
そこにいる俺こそが異物であるかのように、俺は一人立っていることに気づき自分の体を見回して息を漏らした。
「身体が……治ってる」
少し小さくも見えるが、俺の体は完璧に修復されていた。開けと思えば手は開くし、酸素を欲すれば呼吸ができる。
なんとも不気味な感覚ながらも”契約”とやらが行われたのだと、俺は自覚した。
適当に体の動きを確かめていると、困惑の残る俺の前に、突如一筋の線が浮かび上がった。縦に裂かれた線は、ぐぃっと空間をねじ曲げたように開かれ、その奥に潜む漆黒を見せる。
最初は小さな手だった。まるで窓から顔を出すように、開かれた闇から雪のように白い手が伸び出る。
言葉と一緒に出てきたその姿に俺は目を奪われた。いや、見惚れてしまった。
「からだは、治ったようだな」
少女の裸体の姿をしたその存在がアスタロトであると、本能が告げる。
12歳ほどの背丈に、それよりも長く伸びた艶やかな白髪。決して豊満とは言えないが、そこに美を感じさせる体の曲線……だが、素顔は見えない。
暗紫色の瘴気が彼女の目元を覆っていて、辛うじて鼻から下が見える。それでも、顎の輪郭と、雪の中に落ちた果実のように赤い小さな唇が、彼女の顔も尊いものだと教えてくれた。
本能では理解しているのに、その名前を咀嚼するように落とす。
息を溢した音としては不憫な声に、気にした素振りも見せずアスタロトが話を続ける。
「アスタロト……」
「そうだ、余が魔王アスタロトだ! カカッ、面倒な言葉はよしとしよう。勇者テオ……いいや、復讐を近いしテオ・グランド、これから主には”能力値”を決めてもらう」
彼女の声音が耳朶に触れ、改めてその存在が俺を救った相手であると自覚した。
硝子のように透き通っている玲瓏な声音にただ耳を傾けて、全てを肯定する。
「これを見るといい」
《テオ・グランド/男/レベル1》
種族:人間
力 :20
知力:20
耐久:20
敏捷:20
器用:20
運 :20
【魔法】
【特性】――――――
俺とアスタロトの間に文字列が浮かび上がった。
何度も見たことのあるそれは、間違いなく”能力値”と呼ばれており、間違いなく俺のものとは思えないものだった。
この世界には“能力値”が存在する。どう言った原理でそれが表出しているのかは理解が及ばないが、遠い昔、数千、数万年前にも及ぶ太古の時代に、神々が下界に住む万物に与えたと言われている。
一部例外はあるが、基本的に【力/知力/耐久/敏捷/器用/運】の計六つの項目から構成され、その他として【魔法】、【特性】が備わる。この二つは一生かかっても会得できない者もいれば、幼少期に突如として目覚め将来的に偉業を成し遂げる者もいる。
かく言う俺もそうだった。自分で言うのも気が引けるが勇者たる器を持って生まれ、様々な特殊特性を持っていた――が、それも今となっては違うらしい。
浮かび上がった”能力値”は正しく平均値だ。これといって特徴もない凡人を表したような数値となっている。といっても、あくまで平均値というだけであって、実際に世界の住人の”数値”全てが20というわけではない。【力】が高くても【知力】が低い人もいる――。
だが以前の俺とは天と地ほどの差がある数値だ。何かの冗談だろうか……。
「こんなのであいつらと闘えと……?」
この世界においてレベル1での能力平均値は20で間違いないのだが、俺が成し遂げようとしているのは“復讐”であり、俺と同等の力を持ち勇者として名を馳せた、人外の最強たちの殺害――それもただの殺しではなく、圧倒的な力での蹂躙だ。平凡な“能力値”で勝てるはずもない。
平均とはいえ、普通の成人の能力値ですらこんなに低くない。これではこども……そう、子供のような――
「おい、アスタロト」
「なんだ?」
「数値にも言いたいところはあるが、やはり俺の体が小さくなっているのは気のせいじゃないのか?」
「ふむ、気づいておらんかったのか。正確に言えば認めたくなかったのか? 主は今16の姿だ」
にぃと唇で三日月を描いたアスタロトに、奥歯を噛み締めた。屈辱だ。体を治してもらった分際で言うのもなんだが、屈辱だ。
彼女の言う通り、気付いていたさ。なんなら随分早い段階で気づいていたけど……なぜ彼女の趣味に巻き込まれてしまった。
「カカッ、余はその姿の方が可愛いと思うがな」
「お前……」
「そうかっかするな。余の“力”を何だと思っている。今回は特別だ。総数値60以内で好きに割り振ればいい』
「……ろくじゅ、う以内」
今更その自由度の高さに驚いたりはしない。こうやって“能力値”を改竄している時点で神業みたいなものだ。しかし、割り振れるというのはこの上なくありがたいことだ。
俺は言われるがままに“能力値”を割り振った。
もちろん、この数値をどれだけ上手く割り振ったところで、このままではあいつらの足元にも及ばないが。
「カッカッカッカッ、相変わらず面白いやつだ。本当にそれでいいんだな?」
「あぁ、俺はあいつらに“復讐”するんだ。そのための割り振りだし、遂げるためならどんな事だってやってやる。俺は自分の力であいつらを殺す」
《テオ・グランド/男/レベル1》
種族:人間
力 :50
知力:15
耐久:10
敏捷:35
器用:10
運 :0
【魔法】
【特性】――――――
”能力値”は原則として初期値が0だったものは一生上がらないとされる。つまり、現世に戻ってどんなに困難な試練を越えようと、俺の”運”は上がらない。だが、俺は勇者として”偉業”を成すのではなく、復讐を誓った者として”復讐”を成すだけ。そこに運は必要ない。
運に頼らず、俺は自力のみであいつらに復讐する。
【特性】の欄がぼやけてよく見えないが、どうせ空欄だろう。
「そうか、なら余も主の傍らでその物語を楽しむとしよう」
「好きにしろ」
「もちろんだとも――それでは主の新たな歩みの始まりだ。存分に愉しむといい!」
アスタロトが両手を上げ大袈裟に言うと、全身が浄化するかのような光に包まれ、浮遊感に襲われた。
この感覚を俺は知っている。よくある転移魔法の類に酷似しており、おそらくは現実世界への転移といったところだろう、と早々に判断しそのまま身を任せようとするが、
「おい、待てッ! 大事なことを聞いていない、お前は、お前はなぜ俺を助けた!?」
時すでに遅しで、光に包まれる中必死に踠き始めたが、俺の声に返答はなく意識が払われた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」
意識が覚醒するや否や、俺は文字通り窮地に追い込まれていた。
背中に重力を受け、体の前面から空気が痛くぶつかり続ける。空を切る音が耳朶に触れ、身動きがうまく取れない。
現在進行形で、落下していた。
風圧によって無理やりこじ開けられて見える眼下には白い海が漂っている――雲だ――雲よりも高い遥か上空を垂直に落下しているのだ。
絶体絶命の状態で、愉快とばかりに陽気なアスタロトの声が響いた。
『カカッ、余も話したいことは山ほどあるが、まずは主の“意志”を見せてもらおう。なぁにそのうち主の話を聞いてやる』
「お前ぇぇぇぇぇぇぇえええええええええええええ!」
雲の海をすり抜けた先に俺を待っていたのは、これまた信じたくはない光景だった。
周りは緑濃く繁った森林が屹立しているが、その中央部、ステップと呼ぶには大きすぎるくらいにそこだけ開けていた。楕円形に切り抜かれた空間には何やら茶色の――枯れ枝がなんかだろうか――が敷き詰められていて、その中には――、
「飛竜ッ!?」
――がいた。遠目から見ても分かるおよそ100メータルはあるだろう長躯に、今は小さく折りたたまれているが、体躯的にも開けば150メータルはある翼。青白い鱗に覆われた蜥蜴のようなそれは、間違いなく飛竜そのものだ。
《飛竜の巣》。それは人間が立ち入ってはならないとされる禁域の一つ。
優雅で貫禄あるその姿に魅了され神格化さえされるのが飛竜だ。
こちらから何もしなければ襲われるような心配は――個体にもよるが――ないけど、相手の機嫌を損ねたら最後どうなるかは言うまでもない。ましてや《飛竜の巣》を荒らそうなどもってのほかだ。
飛竜に喧嘩を売る気など毛頭ないが、勇者だった頃ならともかく今の俺では相手にもならないのだ。飛竜の大人――成竜と呼ばれるそれは”能力値”の総数値が1000を超えるとされている。例え“能力値”を【力】に振り切っていたとしても現状レベル1の俺が勝つことは常識的に不可能だ。
「あいつ――――――はかったなッ!?」
急降下し風圧にぶつかる中、どこかで笑みを浮かべているであろう魔王に愚痴を叫ぶ。
その時にはもうすでに、巣で寛ぐ成竜の姿がはっきりと見えていた。
こうなったら運任せと、両手で口を塞ぎ目を固く閉じる。せめて出来る限り音を立てないようにして、成竜の蜷局の中心地の隙間に上手いこと落ちる事を願うしかない。
――が、俺に運はないのだから、そう上手く行かないのが現実というものだ。
俺の体は蜷局を巻いていた飛竜の背中に容赦無く落下した。雲よりも高い位置から落ちた俺が生み出す衝撃は、休息をとっていたであろう飛竜を起こすのには十分過ぎた。背中の筋に沿って生える飛竜の体毛によって、命こそ救われたが、飛竜はそうはならなかった。
背筋を駆けた衝撃は全身に警鐘を鳴らし、反射的に体が持ち上げられた。垂れていた首を巻き戻す様に上げ、筋骨隆々とした2本の腕で上体を支えると、翼を大きく広げる。尻尾の先でバシンッと地を叩き、蒼空に向かって咆哮した。
飛竜の体に弾かれた俺は巣の外側へと追いやられ、この上なく運がないというほど嫌な位置にいることに気づく。
飛竜の視線がぶつかり俺は額から脂汗を流し、飛竜は鷹よりも鋭い威厳のある眼光を放つ。
尻もちをつきながら俺はゆっくりと後ずさった。
「悪気はなかったんだ……すまない」
心にもない謝意を口にするが、どうやら取り持ってはくれないらしい。悪気はないのは事実だが、それが飛竜に伝わることはなく――飛竜は更に眼を吊り上げ、口を裂き鋭い牙をちらつかせる。
全身に悪寒が走った。
精神年齢も下がったのかは分からないが、テオは飛竜を前にして完全に竦んでいた。脚は戦慄き、体も思うように言うことを聞かない。
いつまでも勇者ではないということか。
そうだ……俺は単独で魔王討伐という偉業を成した勇者なんかではない。レベル1の16歳の少年であり、ただの雑魚だ。
だが、それも飛竜の前では言い訳にもならない。飛竜からすれば己の休息を邪魔した不届き者で――駆逐対象でしかない。
2度目の咆哮が俺に向かって放たれ、その大翼を羽ばたかせた。
咆哮の衝撃波が無慈悲に俺の体を吹っ飛ばす。
憤激する様子こそ見えないが、飛竜は完全に俺のことを敵だと認めたようだ。獲物を屠る眼光で常に俺を射抜く。
射竦められ震える脚を奮起させ、どうにか飛竜と対峙することを許されるが、対峙したところで現状を打開するような手立てはなく、逃げようにもそれを許してくれる相手ではない。
武器は情けと言わんばかりに腰に佩びた剣が一本のみ。防具も鎧なんかではなく、そこらの村人が着るような最低限のものだ。運が尽きに尽き、万事休すである。元より”運”はないけど。
3度目の咆哮が天に轟いた。両脚に提げた鋭利な鉤爪を陽光で反射させ、恐怖を誘う。
二度、三度と翼で空を叩き、限界まで伸長した鉤爪を獲物(おれ)に定めて、猪突ならぬ竜突を繰り出す。突風を引き起こし、砂塵を巻き起こしながら瞬く間もなく、竜との彼我の距離はなくなった。
巨大な飛竜の影が覆いかぶさり、瞼を下ろして歯を食いしばる。
その時、早々に俺は”死”を覚悟した。
ガキン――――――――ッ。
金属同士がぶつかったような甲高い音が耳朶を刺激したその後に、俺の痛覚を刺激するような激痛は起こらなかった。いや、痛覚が全身に巡る前に体が惨憺たるものと化したのかもしれない。
されど意識はある……と、見えない恐怖に煽られながら瞼をゆっくりと持ち上げた。
飛竜にも劣らず白く輝く金糸の長髪を背中で結わえ、紺色の生地の上下を覆う衣を纏った線の細い体。背中越しでもその曲線美は女性だと分かる。
袖のない衣からは華奢な細腕と、動きやすいように切れ目が施された腰下の隙間からは肉付きのよい脚が伸びていた。露出したキメの細かい白肌も相まって後ろ姿からでも、その人が美麗であることを確信づけ、このような状況でなければ見惚れていたのは間違いない。
気を抜いてしまえば吸い込まれそうな美脚は大地を掴み、僅かに地面を陥没させている。更に華奢な腕の先では握った長槍が、飛竜の強靭な鉤爪を受け切っていた。
命が助かった安堵。前に躍り出た女性への感謝――だが、それ以上に俺はその女性に対して並々ならぬ憎悪が膨れ上がったのを自覚した。
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