アユミが入学してひと月が経ったが、ゲオルギウス学院の景色には未だに驚かされる。
花壇があり、繁みがある。よく手入れされている。どこを歩いていても、かならず視界に入る。わずらわしくはない。考え抜かれた配置だ。
池があり、噴水がある。池には立派な橋がかかっている。それらを前景にして眺める校舎や寮は、中世の貴族の住処のようだ。
そして、極めつけの豪奢な建築物。
天然石で組みあげられ、文字盤に繊細な蔓草模様がほどこされた時計塔である。起床、始業、終業、就寝――節目の時刻を知らせる重厚な鐘の響きは、ここから発せられているのだった。
しかし、この学院のシンボルでもっとも注目すべきは、鐘の音でも文字盤でもない。塔の中腹に刻まれた凄惨な亀裂だった。数メートルにわたる長さで斜めに走っている。
「竜の爪痕――」
アユミはつぶやいた。
「うん」
ユキトはうなずいた。
〈旧科学〉と〈旧魔術〉が烈しく交錯する〈大戦〉のせいで、この国で人間と共存していた幻生物は滅びに追いやられ、正しく伝説上の存在となった。現在は図鑑や博物館で在りし日の姿をわずかにうかがえるだけである。
そんな、あまたの幻生物の頂点に立つ王。獰猛で強大な魔獣にして、世界の秘密を知悉した賢者。それが竜だった。
――いつか、我は還ってくる。人間たちよ、かつての友よ。我を忘れるなかれ。
悔恨をこめて、この国最後の竜はゲオルギウス学院の時計塔に爪痕を残し、限りなく永遠に近い眠りについた。
言い伝えでは、そうなっている。
「どうして、改修しないんでしょう」
「直そうとはしたらしいよ。過去に何度も」
ユキトはアユミの問いに答える。「でも気づいたら元通りになってるんだって。工事する前とおんなじに」
怪談じみている。
あり得ないとは言えない。ここもトーキョーなのだ。
「竜の哀しみが、爪痕に留まってるんじゃないかな。時間の流れも止めちゃうくらい哀しかったんだよ、きっと」
ユキトは珍しく趣のある台詞を洩らした。夢見るような瞳で、今にも血が滲み出しそうな亀裂を仰いでいる。
別人を見るような、なんとも落ち着かない気分に陥るアユミだったが、
「かっけーよなー、竜って。友だちになれるかな」
次の感慨は、いつものユキトらしいものだった。
「闘ってみたいなー。きっとすごく強いんだぜ」
「強いでしょうね」
我ながら気のない返事だった。竜と闘う。そんな発想、アユミは抱いたこともない。
「素手じゃ勝てないだろうなー」
「剣があれば勝てるんですか」
「まあ、悪くても相討ちには持ってける」
「その謎の自信の源を教えてください」
「おばけでも神さまでもないでしょ。生き物なら、なんとかなる」
ユキトはこともなげに言う。
「俺たちが子どものときに、本当にここで竜が召喚されたことがあるんだって。そのときは衛士団と図書館で協力して、どうにかして幻域に戻ってもらったらしい」
「図書館、ですか」
衛士団はわかる。だが、図書館とは。
「〈幻書姫〉って渾名のすっごい魔術師が図書局員だったらしいんだけど、当時の記録はわざとなのか何なのか見事に残ってなくて、俺も本当のことはわからない。ただ――」
ユキトはアユミを見た。
「竜でも何でも現れて、それがもし学院の敵なら、闘うのは俺やアユだよ」
「おばけでも、神さまでも」
「そう。学院にいるみんなのためなら、俺たちは神さまとでも闘う」
ユキトは大真面目にうなずいた。
「――あ、また俺をバカにしてる」
「してません」
本当にしていなかった。
ほとんど初めて、アユミはユキトに衛士らしい気概を認め、少し感動していたのだが――
「そういう顔してた。後輩っちゅう生き物がこんなに生意気なのは生まれて初めてだな」
腰に手を当てて、ユキトは大きくうなだれた。
「わたしも先輩という存在がこんなにいい加減だったことは記憶にありません。ユキトさん、本当にわたしを助けてくれた〈女の子〉だったんですか」
「たぶんそうなんじゃない? 知らんけど」
わたしだって知らんです、とアユミは胸の裡でつぶやいた。別人であってほしいとさえ思う。
時計塔を通り過ぎて、石橋までやってきたときだ。
池の向こう岸から、男子生徒の一団が渡ってきた。七人が橋の幅いっぱいに広がって、大またでゆっくり歩いている。
ユキトはそのまま真っ直ぐ進み、男たちもかたくなに広がったまま近づいてくる。
どちらも道を譲らぬまま、橋の中央で対峙した。
ただならぬ雰囲気に緊張するアユミだが、ユキトはいつも通りの無邪気な――というか締まりのない表情で、一団と向かい合っている。
男子たちはみんな、制服はユキトよりきちんと身につけている。しかし、ユキトのだらしなさとは別の部分で、どこか崩れた印象を受けた。
「これはこれは、団長代理。お勤めごくろう」
ひとりが、たっぷりと皮肉の染みこんだ口調で言った。
紺色がかった長髪を後頭部でくくっている。整った顔だが、細い目や口元に酷薄さがあり、この冷たさは――と、アユミは直感した。ロウのような自分への厳しさではない。他人に向けられた冷たさだ。
「どーも。ふたり分でいいから道を空けてくんないかなー」
ユキトはいささかも動じない。男が発散するものを何も感じていないのだろうか。
長髪の男はユキトに応えず、アユミに目を向けてきた。いやな目つきだった。
「衛士団もイメージアップに必死だな」
「どういうこと?」
ユキトの問いはアユミの疑問を代弁していた。
「こういう庶民の女をひとりでも入れることで、公明正大な組織であることを演出できる。単純だがそれなりに効果のある戦略ではある」
男が言い、仲間たちが追従するような失笑を洩らす。
ようやくアユミは、何を言われているのか理解した。
――この人は、わたしと衛士団の両方を侮辱した。
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