アユミとロウから少し離れたところに、長髪の男が立っていた。
アユミの緊張は頂点に達していた。
一瞬前は、仮面を収めたガラスケースが墓石のように並ぶ白い空間――その奥にいたはずだ。男がいつ移動してきたのか、アユミの感覚は捉えることができなかった。
美しい男だと、アユミですら思った。
年齢はわからない。二十歳過ぎから四十代までのいずれにも見える。
銀色の髪をまっすぐ胸元まで垂らし、細いフレームの眼鏡をかけている。光沢のある布をゆったりと巻きつけたような衣服は、端整な顔立ちと相まって、宗教画に描かれる聖人を連想させた。
もちろん、聖人はウラヨコで店を開かない。
「俺たちを知っているのか」
ロウの問いに、男は口を閉じたまま「ふふふ」と笑った。
「朧=クライン=タブの顔を知らずに、トーキョーの東側でこんな商売はできまいよ。もっとも、そちらの女性はわからない。きみの恋人かね」
「この仮面が、すべて違法の呪具なんですか」
アユミは硬い声で訊いた。
竜だけではないのだ。現存するさまざまな動物から、単眼の鬼、蛇髪の妖女、表の門番がつけていたような何らかの精霊まで、どの仮面も禍々しい効果を容易に想像させる。
「きみの名は」
「亜弓=ヴェルノです。衛士です。副団長の恋人ではありません」
アユミの視界に入らない角度で、ロウがわずかに眉をひそめた。こちらから進んで素性を教える必要はないのだ。まして、魔術に通じた相手にあっさりと本名を。警戒心が欠けているというよりは、アユミのもともとの性格だった。
「アユミか。いい名だね。人生という道を一歩一歩、着実に歩んでいく――名づけた者の願いを感じるよ」
アユミは四方に神経を尖らせていた。男の与太話は耳から耳へと抜けている。
学院の衛士と知って、無造作に招き入れた。つまり、無造作ではないのだ。こちらに抵抗するだけの何かを仕掛けている。
「私の名は尋ねないのかね」
「名乗りたければ名乗りなさい」
「ヤマザキ」
「上の名前は何ですか」
「不要だ。今、トーキョーでヤマザキを名乗るのは私だけだよ」
「教えてください」
男の目が、眼鏡の奥で愉快そうに細められた。
「好かぬ相手に対して『教えてください』か。躾がよろしい。ならば、ムメイと呼びたまえ」
ムメイ=ヤマザキ――無名の意か。ふざけている。
優雅な声やしゃべり方も、この状況ではアユミの癇にさわった。
「ムメイさんに訊きたいことがあります」
アユミが言ったときだった。
突如、空間の隅が黒く染まった。
染みはたちまち領土を広げた。店内が闇色に塗り潰され、仮面のガラスケースも呑み込まれるように消えていく。
たちまち、アユミとロウの周囲は黒一色の世界となった。
天地の感覚は確かだった。足には床を踏む感触がある。ただし、視覚的には、宇宙空間に放り出されたような状態だ。出入口も失われてしまった。
「商品は裏に隠したよ。壊されてはかなわないからね。ロウはともかく、アユミはこう見えてなかなか気性が激しいようだ」
闇に浮かんでいるように見えるムメイが、穏やかに告げる。
地下鉄駅で張られた、アユミが斬った結界とはレベルが違った。精神への干渉ではなく、空間の在りように直接手を加えている。まぎれもなく〈旧魔術〉の領域だった。
「ひとつ、こちらの手の内を明かした」
恐るべき店主は言った。「アユミも見せてくれたまえ」
「何を」
「きみが何者なのかを」
「さっき言いました。衛士です。学院の十年生です」
「そういう表層的な属性ではない。私は、きみのもっともきみらしい姿が見たくなったのだよ」
含みのある台詞を残して、ムメイは闇に滲むようにして消えた。
暗黒空間に、アユミとロウだけが残された。
ロウから、アユミが感じているような緊迫はうかがえなかった。このくらいの異状は何度も体験してきたのだろう。態度が周囲にまったく左右されないところだけは、ユキトと似ているかもしれない。
「ムメイさんは、わたしたちをどうするつもりでしょう」
「アユミに興味があるらしい」
副団長は淡々と嫌なことを言った。「餓死するまで放置はしまい」
確かに、アユミを揶揄うような会話が愉しそうなのは本心に思えた。
「副団長」
「なんだ」
「わたしって、変ですか」
いつだったか、ヒトシにもこんなことを訊いた気がする。
二秒ほど間があって、
「マダムが演説でおっしゃっていた。人と違うことは、普通のことだと。同感だ。自分とまったく同じものを他人に求めることは、支配の始まりだと俺は思う」
「……そうですね。わたしもそうだと思います」
寡黙なロウがふだんから考えていることを話してくれるのは光栄だったが、どう聞いてもアユミの問いを否定する要素は含有されていなかった。なぜなのか。
疑問を反芻するゆとりはなかった。背後から殺気が迸ってきたのだ。
ロウとともに振り返る。
闇から滲み出すように、三個の影が出現していた。
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