「どうしたの、アユ」
刀の留め金を外そうとしたユキトの左手に、アユミの右手が重ねられている。それをそのままにして、ユキトは優しく訊いてきた。
アユミは息も絶え絶えに言った。
「駄目、です」
「何が」
「わたしが、です」
アユミはユキトを見つめた。穏やかな表情だった。これからトーマと戦おうという人間とは思えないほど。
「休んで、俺を応援してて」
「嫌です」
「おい」
ユキトは苦笑した。「やっぱりトーマに勝ってもらいたいの?」
「嫌です」
アユミは繰り返した。
「ユキトさんが勝つのも、トーマくんが勝つのも、駄目です」
「俺とトーマに引き分けはあり得ないよ」
「違います。わたしがやらなきゃ、駄目なんです」
アユミはトーマに目を向けた。
トーマは右八双の構えを解き、自然体に戻っている。
明鏡流の道着を身につけたトーマを見ていると、この格技場が、長年親しんだ道場のように思えてくる。
アユミがよく知っている、灰色の髪をした、背の高い、精悍な顔の、いつもアユミを鍛え、勇気づけてくれた、強くて、やさしい、当麻=ザウエル――
しかし、その彼は今、アユミが初めて出会った剣客だった。
その剣客は、アユミに会いに来たのだから、アユミが迎えなければいけないのだった。
「アユ、無理だよ」
「やります」
「アユ――」
「やります!」
ユキトの言葉を遮って、アユミは腹の底から絶叫した。
「ここであなたに! 何もかも任せたら! わたしもう生きてる意味ない!」
アユミの脳裏に、ヒトシのことが浮かんだ。
治療院のベッドに横たわっている同期の仲間は、自分を護らなかった。衛士として、重要な手がかりである竜の仮面の確保にいのちを賭した。
アユミも衛士だ。
そして、その前に剣士だ。
自分で選んできた役割をここで証明できなければ、衛士団長のユキトの前にも、明鏡流後継者のトーマの前にも、顔を上げて立っていられない。
呼吸を整える。身体に熱が巡ってくる。
トーマの一撃を受けて感覚を喪っていた手に、再び力が篭もる。
アユミは右手を、ユキトの左手から、刀の柄に移した。
「――抜きな、アユ」
ユキトは左手の親指で留め金を弾き飛ばした。
「――はい!」
アユミはユキトが持つ鞘から逆手で刀を抜いた。
業物の刀身が剥き出しになった。手入れは欠かしていない。この瞬間のために。
手元でくるりと刀を回し、アユミは順手でしっかりと握り直した。
「トーマ、やっぱり代打はなしだ」
空の鞘を振って見せて、ユキトは愉快そうに言った。
「そのようだな」
トーマは唇の端を上げて、再び刀を構えた。
「でもちょっと残念。アユミもトーマくふぅーんとやりたかったなぁ」
「アユミはわたしですしそんなしゃべり方をわたしはしません」
身をくねらせるユキトに、アユミは冷ややかに言った。「今度その真似にもなっていないおふざけをしたら、いくら団長代理でもいい加減に許しませんよ」
「何が『いい加減に』だよ。アユが俺に何か後輩らしい遠慮とかしたことあんの」
「やめますか、遠慮。やめてみてもいいですか」
「キレててテンション高えよ! こわっ」
身を縮めて怯えた仕草をするユキトに、
「感謝するぞ、ユキト」
そうトーマが言って「嫉妬もする」と続けた。
「嫉妬って、何で」
「俺はアユミをその気にさせられなかった。ユキトは、俺よりもアユミをよくわかっているらしい」
「バカなだけじゃね? アユは自分でやる気を出した。俺は何もしてないよ」
ユキトは入口付近の壁際まで下がった。
ここからは、アユミとトーマの時間だった。
アユミに顔を振り向けたトーマは、唇を引き結んで、たちまち殺気を高め直す。
この幼なじみが、アユミの中に何を見い出したのか。それは後で訊こう。話ができるような状態で終われるかどうかはわからないけど。
アユミは刀に意識を集中した。
雑念は自然に退いていった。
*
「始まるところだね」
中性的な声がして、ユキトは右隣を見た。
銀色の長髪を垂らし、華奢な眼鏡をかけて、輝くような布でできた服を纏った男が立っている。
「どっから入ってきたの」
「もちろん入口からだよ」
ユキトは、入口の右横にいる。
つまり、ユキトの目の前を通らなければ、ユキトの右隣に来られるはずはない。
「ふーん」
と言ったきり、ユキトはそれ以上、追及しようとはしなかった。
「お前、いくつ?」
「見ての通りだが」
「見たまんまじゃないから訊いてんだけど。百歳か。二百歳か」
ユキトの問いに、男は肩をすくめた。そんな仕草も様になる、美しい男だった。
「わかるかね」
「わかるよ」
「ふつうは疑問に思わないものだが」
「俺は思った。何か文句あんの」
「とんでもない。さすが雪都=シュッテンだと感心していたのだよ」
男は微笑んだ。人を不安にさせるような微笑みだった。
「お前がヤマザキ?」
「いかにも――いや、君たちはムメイと呼びたまえ」
仮面の店のあるじは、対峙するアユミとトーマを観察した。
「アユミの本性が見られるのを愉しみにして来たよ」
「見たままじゃん、アユは」
ユキトは不機嫌な声でいった。「ただアユがキレるところを見たいだけか。浅いなあ、お前」
「ほう、ユキトには彼女の本質が見えているのかね」
「だから本性とか本質とか、そんなの勝手な思い込みだってば。アユはアユ。そこにいるまんまだよ」
こういう言葉をもっと本人に聞かせれば、ユキトへの印象はずいぶん修正されるだろう。しかし、今のアユミは勝負に集中しきっていて、外野の声など届いていない。
「見るんなら黙って見てな」
「では、拝見しよう」
ムメイがそう言ったときだった。
アユミが動いた。
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