「すでに中等部、あるいは他の中学校で習ってきたと思いますが――」
講師の穏やかな声が教室に流れる。
陣=ウィリアムズ。黒ぶちの眼鏡をかけた、おっとりした雰囲気の青年である。
この学校の教師としてはまだ若い。二十代半ばか。花模様のシャツを着て、袖をまくっている。
「〈大戦〉の後、連合国の指導によって実現したさまざまな政策のなかで、もっとも劇的だったもののひとつが、国民総改姓法案、いわゆる〈総改姓〉です」
最前列の席で聴いていたアユミは、ノートに〈総改姓〉と書きこんだ。
刀は隣の空いている席に立てかけている。
第九校舎――通称〈キュウコウ〉の一室で行なわれている、近代史の授業である。
全五十席のうち、埋まっているのは半分ほどだった。
もともと履修している人数がこの程度なので、遠慮なく空席にものを置ける。
同じ時間帯に人気講師の別の授業があって、気の利いた生徒はそちらを受けるのだと、以前にキョウコが教えてくれた。
ジンは、大勢の学生の興味をいっきに惹きつける、エンタテイメント性のある授業を行なうわけではない。だが、静かな語り口の中に、芯のようなものを感じさせる。アユミにとっては面白い講義だった。
「古代の魔術師たちは、自分の真の名を決して他人には明かさなかったといいます。名前を知られているというだけで、相手が魔術を掛ける大きな足がかりとなる。真の名は、魂と均しいくらいの重要な価値があった」
眼鏡の青年は訥々としゃべりつづける。
「〈総改姓〉は、さまざまな人種が共存する新しい時代に対応するための改革であったことは確かです。しかし、昔からの姓を取り上げて、いきなり諸外国の姓をつけることは、名前が持っている本来の魔術的な意味を奪うことでもありました」
〈戦前〉に頂点を極めた、世界の理を左右できるほどの強大な魔法は〈旧魔術〉と呼ばれ、〈旧科学〉と同じく、現在は衰退している。
アユミの周囲にも、占いやまじない以上の、おとぎ話のような魔法を発揮する者などいなかった。
ゲオルギウス学院では、この〈旧魔術〉の研究が盛んである。他の学校にはない特徴のひとつだった。魔術を扱う授業を、アユミもいくつも受講している。衛士団にも〈旧魔術〉専門のチームが存在する。
「ご先祖さまから受け継いできた姓を変えることには、もちろん反発する声も大きく上がりました。しかし〈大戦〉の敗北で国中が疲れ切っていた時代です。連合国による急速な復興の代償として、法案成立には逆らえませんでした」
ジンは学生たちをぐるりと見まわした。「皆さんは、自分の苗字に違和感はないでしょう。生まれたときからその苗字だものね。無国籍な響きの苗字に違和感をおぼえるのは、おじいさんか、ひいおじいさんの世代です」
衛士団という組織が誕生したのは、現在のこの国のかたちがほぼ整い、連合国の統治期間が終了してからだという。およそ半世紀前。それほど古い歴史ではない。
自由は、同時に混沌も連れてくる。永い統治から脱したこの国は、官の力だけでは治安を維持できない時代に突入したのだ。
厳しい審査をパスした団体だけに、国の公安委員会から、銃砲刀剣類所持使用限定許可――通称〈武装許可〉が下りる。制度が始まったころは大手の警備会社などが主な対象だったが、やがて学生の自主運営する組織も対象となった。
ゲオルギウス学院を筆頭に、トーキョーでは十校が衛士団を擁している。
その十校が許可され、また多くの学校が不認可されるにあたって、どんな政治的な力学が作用したのかはわからない。武装許可という「御免状」を得るために、表沙汰にはできない暗闘もあっただろう。
怖ろしい権限である。
武装を許可されているということは、つまり、やむを得ない場合に殺傷行為を認められているのだ。
だからこそ、衛士団の入団資格は厳しく問われる。
アユミは入団試験を思い出す。
面接官を務めるロウたち先輩衛士のまなざしは、真剣そのものだった。物理的に貫かれそうな視線に、相対するアユミは喉がからからに渇いた。志望者の精神の正邪を見わけるべく、向こうも必死だったのだろう。
例外がひとりだけいて、椅子の上にあぐらをかき、終始愉快そうに笑っていた。あれがまさか団長代理だとは思わなかった。
――いけない。
もの思いにふけっているうちに、ジン講師の板書が進んでいた。
衛士は業務が多忙で、なかなか授業に出られない。限られた機会に集中しなければ。
アユミはシャープペンを動かす手を早めた。
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