トーキョーの中心部をぐるりと囲んで走る、帝都循環鉄道。
アユミがそれを利用するのは、学院に入学するとき以来だった。遠出する暇などなかったのだ。もっとも、今日も私用ではない。ロウのお供である。
帝鉄のハママツチョウ駅まで歩き、そこから乗車した。
ワタルから竜の仮面の分析を聞いた、二日後の朝である。通勤ラッシュを過ぎた時刻で、循鉄の車内は空いていた。いくらでも席がある。
だが、ロウは乗降口のそばに立ったままだ。自然とアユミもそれに倣った。
ふたりとも私服である。
「――どうした」
ロウに問われたのは、アユミの視線が不躾だったからだろう。
「失礼しました。副団長の服装を見ていました」
アユミは正直に告げた。
今日のロウは、大きなシルエットの長袖Tシャツを着て、細身のダメージジーンズを穿き、頑丈そうなショートブーツに足を通していた。さらに、頬までかかる大ぶりな四角い眼鏡をかけている。
少し癖のあるミディアムヘアや、顎の無精髭とよく噛み合った装いで、不良っぽい魅力の歌手やダンサーを思わせた。
あまり男子の外見について感想を持たないアユミですら「今日の副団長は芸能人みたいに格好いいのでは」と思ったのだけど――
「俺の本来の趣味ではない。街に馴染むためだ」
ロウには珍しい、弁解するような物言いである。本人は気に入っていないらしい。あくまでも、仕事のための変装ということなのだろう。
なので「よく似合っています」と続けたかったアユミだが、褒め言葉を引っ込めるしかなくなった。
馴染むことは馴染むだろう。ゲオルギウス学院の生徒と思う者はいまい。
ある意味、逆に目立つかもしれないという気がかりはある。
今も少し離れたところで、大学生か専門学校生とおぼしき女性三人組が、こちらを盗み見しながらひそひそと会話している。ロウに惹かれているようだ。
アユミは自分の服装を見下ろした。
襟付きのシャツ、チェック柄のくるぶし丈のパンツ、バックバンドで踵が固定されたサンダル。本当はもっと脱げにくい靴がよかったのだが、アユミも自分なりに「街に馴染むため」のコーディネートを目指した。シャツはボタンを上まで留め、裾をしまっている。
ロウを見て、また自分を見る。
「あの、副団長」
「なんだ」
「ボタンを外して裾を出したほうがいいでしょうか」
「そのままでいい」
即答だった。
出かける前に、同じことをキョウコにも訊いたのだが、
――いい。それでいい。
――変じゃないですか。遠慮せず言ってください。
――いい。そのきちんとした着こなしが野暮ったくならず臈長けた雰囲気なのはアユミさんの気品のなせる業よ。いい……とてもいいわ……
と、後はうなされたように「いい」と言うばかりなので、あまり参考にならなかった。
今さら少し着崩しても印象は変わるまい。野性味のある華やかな兄とおとなしい妹のように見えるだろうと、アユミは結論づけた。
「……アユミでは派手だったかもしれんな……」
「えっ、副団長?」
聞き捨てならない言葉がロウの口から漏れた気がする。いや、確かに漏れた。
「なんでもない」
「副団長?」
列車が減速した。目的の駅に着いたのだ。
「行くぞ」
「は、はい」
消化不良なまま、アユミはロウとプラットホームに降りたった。
トーキョーだけでなく全国からの列車を迎え入れては送り出す、この国の大動脈を担う巨大な発着場――ウエノ駅。
*
だだっ広い駅構内を抜けて、表に出た。街の喧騒がアユミを包んだ。
幅広の横断歩道を渡って、さらに混雑した通りへと進む。
何十年も昔からあるような食料店、衣料店、合法の武具店など、さまざまな商店がひしめいている。ウエノを象徴する商店街――アメ横だ。
「これを手に貼れ」
歩きながら、ロウはポケットからシールを取り出した。五センチ四方ほどの大きさで、得体のしれない文字が渦を巻いている図柄だ。
ロウに従って、アユミも手の甲に貼る。
シールが皮膚に染み込んで一体化し、刺青を入れたようになった。
「何でしょう、これ」
薄気味悪さは否めない。
「これから向かう場所の通行証だ。衛士と知られず手に入れるのに少しかかった」
お金のことか。
「いくらですか」
「三百万」
えっ、と声をあげてしまった。すれ違う幾人かが不審そうにこちらを見る。
「どこからそんな大金を」
「団費だ。どうした」
ロウが不思議そうなのが、アユミには不思議だった。改めて手の甲を見つめる。これが一枚、百五十万円。
「マダムが団に理解を示してくれている。予算はいまのところ潤沢だ」
三百万円を「少しかかった」のひと言で片づけられるほどの予算が気になったが、それを問う前に、
「ここだ」
ロウが足を止めた。
全国チェーンの薬局と昔ながらの金物屋にはさまれた、鉛筆みたいに細い雑居ビルの前だった。入口の磨りガラスは、罅をガムテープで補強している。何の表札も看板も掲げられていない。
ドアに棒状の取っ手がついている。ここだけが妙に真新しい金属製だった。
「通行証を貼った手で、同時に握れ」
「はい」
アユミとロウは取っ手をつかんだ。手の甲に刻まれた文様が熱を帯びる。
ドアを押し開けて、中に踏みこんだ。
「これは――」
アユミは眼鏡の奥の目をいっぱいに見開いた。
とっさに感覚を尖らせたのは、ヒトシの悲劇の教訓だった。魔術による幻覚を疑ったのだ。だが、違和はなかった。確かに実在する空間なのだ。
あり得ない光景が広がっていた。
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