「な、これがアユだよ」
ユキトは自分の手柄を自慢するように、にんまりした。
アユミは、トーマに臆せず対峙していた。
ふたりの剣気がぶつかって、格技場に張り詰める。
まちがいなく、命の取り合いなのだ。しかし、そこに付随してしかるべき凄惨さは不思議なほど薄かった。明鏡流の名にふさわしく、烈しいが、濁りも曇りもない剣気だった。純粋な闘争の場がそこには生まれていた。
「だが、彼は人をあやめている」
ムメイは眼鏡の縁に手を当てて、言う。「アユミにその経験はないらしい。ふたりの実力が拮抗しているならば、勝敗を最後に分けるのは、殺しの彼岸に到達したか否かではないのかね」
「お前さぁ、アユの味方じゃないの」
「むろん、そうだよ。アユミに大きな期待をかけている。その心に潜むものをあらわにしてほしい。本当のアユミはさぞ美しかろう」
「だから本当とか嘘とかないって。泳げない魚はいないじゃん」
「魚、かね?」
脈絡のなさそうな単語に、ムメイが眼鏡の奥で眉をひそめた。
「いいから見てなって。水は満ちた。すぐにわかるよ」
「ふむ」
奇妙な魔人たちは、ふたたび戦いを注視する。決着の刻が近づいていることは、両者に共通した意見なのだった。
*
刀の先を身体の陰に隠したまま、アユミはトーマに近づいた。
跳び上がる――そう見せかけて、一気に上体を伏せた。
トーマのすねを斬り払いにいく。流派によっては邪道とされる腰から下への攻撃も、明鏡流には多彩に存在する。
トーマは斜め前に大きく踏み込んで、アユミの刀の軌道の外に逃れつつ、高々と掲げていた刀を振り下ろす。トーマほどの体幹の強さがあれば、乱れた体勢でも、十分に体重の乗った一撃が放てる。
そう来ると思っていたのだ。
アユミは低い姿勢のまま床を蹴って、トーマの横に回り込んだ。
ここから放つ一刀が本命。しかし――
「けぇいっ!」
トーマが吠え、すさまじい手首の返しと重心移動によって、強引に技の軌道を曲げる。
あらゆる状況から最良の角度で斬り込める――これがコウキを一刀両断できるトーマの強みだった。
ここまで読まれていた。それが嬉しくもあった。さすがトーマくんだ、やっぱりわたしのことをわかってくれている――そんなふうに、心のどこかで思った。
迫る死の一刀を、アユミはむしろ陶然と待ち受けた。
その瞬間、時が止まったのだ。
トーマの刀を、アユミの眼は鮮明に映した。刃の曇りまでくっきり視えた。
これはおそらく、道場破りを返り討ちにしたときと同じ領域だった。
アユミはそこに入った。違うのは、今度はきちんと意識があることだった。自分の頭の後ろから、自分とトーマの動きを見ているような感覚――
アユミが動くのを、アユミは見ていた。
柄を握る左右の手をしっかりと締め、床をふわりと蹴って、身体ごとぶつかっていくように斬り上げる。
そのすべての動作が一呼吸で行われた。
もはや斬るという意識すらなかった。
アユミは刀だった。
アユミは技そのものと化した。
無駄な力も、殺意も、トーマへのさまざまな濃い感情も――何もかもが抜け落ち、ただ技が技として存在する純粋な斬り込みは、ゆるやかに、軽やかに、しかしトーマの必殺の一刀を超える速度で、トーマの胴体に届いた。
風のようにアユミはトーマの横を通り抜けた。
花のように血を噴いて、トーマは仰向けに倒れた。
*
「あれは、かわせない」と、ユキトは言った。
「完璧な一刀だ。人をやった経験とか、そういうのはどうでもいい。アユはあれが出せる。そういう生きものなんだ」
「なるほど――魚が泳ぐことに理由はないか」
ムメイは長い髪をかき上げて、ため息をついた。「アユミに興味はなくなったよ」
「ふーん。よかった」
「もう興味というレベルではない。欲しい」
「ほえ?」
ユキトが他人に対してこんなあきれたような表情を浮かべることはめったにない。
ムメイは艶然と微笑んだ。
「アユミほどの女を、衛士などという窮屈な肩書きに縛り付けておくのは損失だよ。ユキト、手放したまえ。私の傍にいたほうがアユミは幸せだと思わないかね?」
ユキトの右手がかすんだ。
ムメイは消えた。
比喩ではない。文字通り、煙よりも鮮やかに、この場から消え失せてしまったのだ。瞬間移動を修めているのか、あるいは、本人ではなく式神か何かだったのかもしれない。
「ユキト、君にも驚かされるよ。本気で逃げてしまった。でなければ目が潰されていたからね」
声だけが、ユキトの耳の近くで聞こえた。
「また会うときまでそれは預けておこう。失くさないでくれたまえ」
その言葉を最後に、完全にムメイの気配は途絶えた。
ユキトは手の中に残る華奢な眼鏡を見つめた。
「もう来なくていいよ、お前は」
つぶやいてから、その眼鏡をかけて額の上に乗せるところがユキトらしい。
常人なら、眼鏡を奪われたことも気づかないはずだし、ムメイが言ったとおりになっているはずだった。カズヤより、トーマより、ムメイ自身がもっとも畏るべき相手なのかもしれなかった。
ユキトはアユミに目を戻した。
アユミは刀を放り出して、倒れたトーマによろよろと駆け寄っていた。
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