トーマがゲオルギウス学院の中等部に通うことになったとき、十一歳だったアユミは釈然としなかった。
合格を喜ぶべき名門校ではある。だが、学院は寮生活で、外出や外泊が厳しく制限されるという。これまでのように道場で鍛えることができなくなる。
しかも、トーマは剣道部に入ると決めたのだ。
これにはアユミばかりでなく、他の門下生も驚愕した。明鏡流の後継者になるべき男が、なぜいまさら学校の部活なんかを――ひどい寄り道ではないかと、みんなが思ったのだ。
渦巻く疑問と不信に対して、トーマは道場に全ての門下生を集め、宣言した。
「まだまだ未熟な自分ですが、明鏡流で身につけたことを大勢の人間のために活かしたい。自分ひとりが強くなるのではなく、多くの剣士のためになることをするのが、祖父が興した明鏡流の本質であり、本懐だと思うのです」
十三歳のトーマは、アユミや大人の門弟たちが思うより、ずっと高い境地をすでに見据えていたのである。学院生活は次代の師範になるための修行であるとみんなが納得して、最終的には快く送り出すことができた。
それから、足かけ六年。
それまで目立った成績を残していないゲオルギウス学院剣道部は、全国大会の常連へと成長した。
新聞で結果を読んだり、実家に帰省するトーマから話を聞いたりするたびに、アユミは我がことのように誇らしく思ったものだ。
トーマひとりの力ではない。もちろん部員みんなが努力したのだ。
しかし、トーマがいなければ、決して成し得なかった偉業なのは断言できる。
そんな剣道部主将が、穏やかでないことを言う。
「副将が闇討ちって――脅迫でも受けてるの」
今朝、衛士団本部でロウに見せてもらった怪文書を思い出し、アユミは頬をこわばらせた。
「そういうわけじゃない」と、トーマは笑って否定した。
「だが、ここはトーキョーだ」
アユミは「そうだね」と応じた。
学校に衛士団という武装組織が必要なこと自体が、トーキョーの混沌を象徴している。
十年以上前に、シンジュク区の大部分が謎の大穴に呑まれて消滅する大災害が起こった。隕石の落下とも、反政府組織による〈旧魔術〉テロとも言われているが、原因は判然としない。ともかく〈大陥没〉と呼ばれるその出来ごとを境に、この国の治安はますます不安定になったのだ。
アユミが明鏡流の道場に通うようになったのも、護身術のひとつも覚えさせなければという、両親の意向が始まりだった。
そんな時代だから、武道で成果を挙げることは、その学校の大きなイメージアップにつながる。
全国大会への出場を賭けたトーキョー予選がはじまるまえに、レギュラー陣をあらかじめ潰しておこうと、どこかの学校が刺客を放つ可能性は大いにあった。
「頼りにしているぞ、衛士団」
「がんばる。トーマくんを護る必要はないけれど」
「おい」
トーマは苦笑したが、アユミは思ったことを素直に述べただけだった。トーマが敵わないような刺客なら、自分にも止められるはずがないとは思っている。
「俺に護衛が要らないなら、コウキも大丈夫か」
剣道部副将、弘毅=ユンファについて、トーマは語ってくれた。
トーマとおなじ十二年生で、政治家の息子だという。ユンファという苗字に聞き覚えがあったので尋ねると、やはり父親は〈貴族院〉の有力な代議士だった。
「パイプ役というのかな、交渉ごとが上手な男だ。血筋だな。部の運営に関してずいぶん助けられた」
「強いの」
「強い。堂々とした剣を遣う」
トーマが断言するのだから、本当にに腕が立つのだろう。
「団体戦は五対五だ。俺とコウキで二勝はできる」
獲らぬ狸の皮算用ではなかった。自分たちの実力を客観的に見つめた予測だ。
「アユミがいてくれたら、三勝めも堅い。全国制覇も現実味があるんだが」
「何を言ってるの」
アユミは笑った。
昔からこうだった。トーマの眼力も、古い妹弟子の力量だけは高く見積もりすぎるきらいがあり――
「衛士団と掛け持ちでもいい。大会の日だけ参加しないか」
こんなことを、真面目な顔つきで提案してくる。
トーマに剣道部へ誘われたのは一度ではない。
一廉の剣士としてトーマに認められているのは、素直に嬉しかった。
だが、アユミはすでに衛士団へ入ることに決めていたのだ。
たとえ何万人が志願しようとも、能力や人格が基準に届かなければ全員不合格になる。学院への入学より狭き門かもしれない。
それでも、アユミは賭けた。
わたしは――わたしの剣は、人を護れるのだろうか。
さいわい、アユミは入団を許された。それは、アユミという個人の評価だけでなく、明鏡流という流派への信頼のおかげだと思っている。トーマを輩出した、あの剣術道場の出身者なら、と。
「衛士は、部活に入れない決まりだから」
と、アユミはあらためてトーマに言った。
学校の部活動にかぎらず、衛士がほかのあらゆる団体に参加することは〈全衛連〉――全国衛士連盟の規約によって禁じられている。学生離れした能力と権限をもっている衛士は、一般学生が活躍する場から隔たっていなければならなかった。
「大丈夫だよ。わたしなんかいなくても、きっと優勝できる」
「あまりプレッシャーをかけるな」
トーマはじろりとアユミをにらむ。
アユミは臆せず、深い色をしたトーマの目を見返した。
「わたしは、トーマくんを信じてる」
今度の全国大会は、トーマにとって六年間の――大仰にいえば、青春の集大成なのだ。明鏡流とひととき距離が開いても、トーマがどうしてもやり遂げたかったこと――
自分だけが強くなるのではなく、周りの人も強くする。
それを雑念なしに極めてほしいと、アユミは心から願っているのだった。
「アユミ――」と、トーマが何か言いかけたときだ。
「うおっデイトっ、アユがデイトしてるっ」
呑気な声がふたりの背後から飛んできた。
アユミは振り返った。誰なのかは明らかだった。自分をアユと呼ぶ者は、この学院にひとりしかいない。
サンダルのかかとをパコパコと鳴らして、ユキトが歩み寄ってくる。
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