剣の乙女と学院騎士団

秋永真琴
秋永真琴

7 剣鬼

公開日時: 2020年10月30日(金) 10:00
更新日時: 2020年10月30日(金) 13:05
文字数:2,664

 厚い氷が張ったような無表情で、トーマが格技場の中央にたたずんでいる。

 生気が抜けた幼なじみを、アユミは胸を痛めて見守る。

 午前五時。ほとんどの学生がまだ眠りに就いている時刻だ。学院は静けさの海に沈んでいた。

 格技場の小窓から、昇ったばかりの朝陽が射し込む。鳥の鳴き声が遠くから届いてくる。


 昨夜、寮の共同電話で呼び出されたのだ。

 ――明日の朝、会えないか。

 ――どうしたの。

 そう訊きかけて、口をつぐんだ。どうしたも何も、死傷者の家族を別にすれば、今回の事件でもっとも奪われたものが多いのはトーマである。その虚無感は想像してもしきれない。

 ――うん。会おう。

 と約束した。

 明け方、キョウコを起こさないようにそっと身支度して、寮を出てきた。


 トーマは袴を身につけ、腰に刀を差していた。

 剣道着ではなかった。明鏡流の道場に立つときの格好である。刀も竹刀や木刀ではなく、立派な鞘に納まった、おそらく真剣だ。

 組み稽古でも何でも、自分がトーマの気を少しでも晴らせるのなら、ただ、黙って付き合おうと思った。


「――悪いな、こんな早くに」


 トーマが口を開いた。


「ううん、いいよ」

「疲れているだろう」

「大丈夫。厳戒体制は終わったし」

「頑張ったな」


 トーマの労いに、アユミは首を横にふった。


「わたしは何もできなかったよ。ぜんぶユキトさんや、副団長や、ヒトシくんが――」

「そんなことはない。アユミには自分が思っている以上の力がある。俺が保証する」

「――ありがとう」


 胸にやわらかな火が点る心地だった。

 アユミがトーマのような状態におかれたら、こんな気遣いができるだろうか。

 だからやっぱり、トーマくんには敵わない――そう思った。


「わたし、もっと頑張る」

「頑張らなくていい。ただ、本気を出すんだ」

「本気だよ、わたしは。いつも全力を出して、それでも――」

「違う」


 トーマの声が、ふいに変わった。


「違わないよ……?」


 応えながら、アユミは胃が硬く縮むのを感じた。

 気のせいだと思おうとした。トーマだって人間である。疲れていれば語調が荒れることもあるだろう。トーマがアユミに、こんな、敵意を篭めたような声を出したことなどない。これからもないはずだ――


「なら、どうして刀を抜かない」

「それは――」


 アユミは腰の刀の留め具に手を添えた。


「剣は『武器』でなく『楯』であるべきだって、わたしは思うから」

師範じいさんの受け売りか」


 トーマは皮肉めいた口調で言った。


「あれは、嘘だ」


 アユミは茫然と兄弟子を見つめた。

 聞き違いだ。

 明鏡流の二代目が発していい言葉ではなかった。

 それは先代を――流派そのものを否定するのと等しい。


「嘘って――そんな、何を言っているの」

「嘘が言い過ぎなら、ただの理想だ」


 トーマはこちらを見なかった。斜め下を向いている。

 絶望の最中にあるせいで、トーマはネガティヴな発想に絡め取られているのだ。そうに決まっている。


「血を分けた俺には、わかる」


 アユミから目を背けたまま、トーマは言った。


「爺さんはくどいくらい、人を護る剣を説いた。それは、自分に言い聞かせていたんだ。自分の中に潜む剣鬼けんきを封じ込めるために。〈大戦〉で、人を斬ることに悦びを感じた自分を否定するために」

「違うよ――師範は、だって、トーマくんのお爺さんでしょう、それを」


 何が言いたいのか、自分でもよくわからない。ただ、トーマの妄言を黙って聞いていられない。


「爺さんの理想は正しいと俺も思った。だから一時、道場から離れて、剣道部を育ててみたんだ。でも、俺にもやはり剣鬼が眠っていた。抑えきれなかった。だからコウキを斬った」

「え?」


 トーマが顔を上げて、その目でアユミを真っ直ぐに射た。

 暗い洞窟のような底なしの深い闇をたたえた眼で――


「コウキを斬ったのは、カズヤでなく俺だ」


 トーマはそう繰り返した。



     *



 同じ頃――

 ユキトとロウは学院への帰路についていた。警察署でジンとカズヤの取り調べに立ち合っていたのだ。

 ひと気のない早朝のヒビヤ通りを南下する。


「カズヤとやってる間、思ったんだよね」


 ユキトが言う。アユミが聞いたら驚くような暗い声だ。


「まあまあの腕前だったよ。でも、本当にコウキを斬ったのかなって」


 ユキトと並んで歩きながら、ロウは黙って聞いている。


「竜の仮面をつけて、ジン先生の魔術でイカれて――それでもあの程度しか暴れられないやつが、剣道部の副将を真っ二つにぶった斬れるかな。あれは、キレてウワーッてなってできることじゃない。冷静な殺意がないと無理」

「駅員は、結果的に亡くなっただけか」

「そう。やる気でやるのとは違う。自分の意志で、初めて人をやるときは、やっぱりキツいじゃん」

「そうだな」


 ふたりの言葉には重い共感が流れていた。

 経験者だからだ。

 歴戦の衛士である以上、背負っていてしかるべき十字架だった。


 刑事の尋問に割り込んで、ユキトはこの疑問をぶつけたのだ。

 それでも、カズヤはコウキを斬ったと主張した。


 ――〈貴族院〉の代議士の息子を殺したとあっては、さすがに揉み消しは図れまい。あの男は政界の反感を買い、会社は傾くだろう……いい気味だ!


 父親への恨み言を吐いて、ケタケタと狂的に笑った。負の感情を暴走させるジンの魔術と、ユキトの徹底的な追い込みによって、すでに精神がボロボロなのだった。

 そのジンも、カズヤにやらせたと言い張って利かなかった。


 ――僕がウラヨコでヤマザキから呪面をふたつ買い、カズヤくんに与えて、魔術で操ったのです。まず、僕を蔑み、脅してきたコウキくんを始末させた。それから、カズヤくんの本来の目的である衛士の襲撃に向かわせた。それは巡視中の誰でもよかったのです。ヒトシくんでも、アユミくんでも。何も矛盾はありません。そうでしょう、刑事さん?


「なあ、ロウ」

 ユキトが暗い面持ちで言った。「やっぱり、先生はトーマを庇ってるのかな」

「可能性は高い」


 ロウの顔にも疲労の翳が濃い。


「ジン先生には、やったことを隠蔽しようという意志がまるで欠けている。自分とカズヤが派手に動いて、自分たちがすべての犯人だと積極的に誘導するかのようだ。自白が取れれば警察もそれ以上、学院がらみの事件に深入りはしない」

「やだなあ。アユが悲しいと、俺も悲しい」

「衛士でなくても、剣士でなくても、生きていくことはできる」

「わかってねえな、ロウ」


 ユキトは口をとがらせ、ロウをちょっと心外そうな表情にさせた。


「衛士も剣も忘れられるようなやつならいいよ。アユはそうじゃない。悲しいまんま、刀を握るんだ」


 やだなあ、とユキトは繰り返した。

 アユミ本人には聞かせたことのない、寂しげな声である。

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