厚い氷が張ったような無表情で、トーマが格技場の中央にたたずんでいる。
生気が抜けた幼なじみを、アユミは胸を痛めて見守る。
午前五時。ほとんどの学生がまだ眠りに就いている時刻だ。学院は静けさの海に沈んでいた。
格技場の小窓から、昇ったばかりの朝陽が射し込む。鳥の鳴き声が遠くから届いてくる。
昨夜、寮の共同電話で呼び出されたのだ。
――明日の朝、会えないか。
――どうしたの。
そう訊きかけて、口をつぐんだ。どうしたも何も、死傷者の家族を別にすれば、今回の事件でもっとも奪われたものが多いのはトーマである。その虚無感は想像してもしきれない。
――うん。会おう。
と約束した。
明け方、キョウコを起こさないようにそっと身支度して、寮を出てきた。
トーマは袴を身につけ、腰に刀を差していた。
剣道着ではなかった。明鏡流の道場に立つときの格好である。刀も竹刀や木刀ではなく、立派な鞘に納まった、おそらく真剣だ。
組み稽古でも何でも、自分がトーマの気を少しでも晴らせるのなら、ただ、黙って付き合おうと思った。
「――悪いな、こんな早くに」
トーマが口を開いた。
「ううん、いいよ」
「疲れているだろう」
「大丈夫。厳戒体制は終わったし」
「頑張ったな」
トーマの労いに、アユミは首を横にふった。
「わたしは何もできなかったよ。ぜんぶユキトさんや、副団長や、ヒトシくんが――」
「そんなことはない。アユミには自分が思っている以上の力がある。俺が保証する」
「――ありがとう」
胸にやわらかな火が点る心地だった。
アユミがトーマのような状態におかれたら、こんな気遣いができるだろうか。
だからやっぱり、トーマくんには敵わない――そう思った。
「わたし、もっと頑張る」
「頑張らなくていい。ただ、本気を出すんだ」
「本気だよ、わたしは。いつも全力を出して、それでも――」
「違う」
トーマの声が、ふいに変わった。
「違わないよ……?」
応えながら、アユミは胃が硬く縮むのを感じた。
気のせいだと思おうとした。トーマだって人間である。疲れていれば語調が荒れることもあるだろう。トーマがアユミに、こんな、敵意を篭めたような声を出したことなどない。これからもないはずだ――
「なら、どうして刀を抜かない」
「それは――」
アユミは腰の刀の留め具に手を添えた。
「剣は『武器』でなく『楯』であるべきだって、わたしは思うから」
「師範の受け売りか」
トーマは皮肉めいた口調で言った。
「あれは、嘘だ」
アユミは茫然と兄弟子を見つめた。
聞き違いだ。
明鏡流の二代目が発していい言葉ではなかった。
それは先代を――流派そのものを否定するのと等しい。
「嘘って――そんな、何を言っているの」
「嘘が言い過ぎなら、ただの理想だ」
トーマはこちらを見なかった。斜め下を向いている。
絶望の最中にあるせいで、トーマはネガティヴな発想に絡め取られているのだ。そうに決まっている。
「血を分けた俺には、わかる」
アユミから目を背けたまま、トーマは言った。
「爺さんはくどいくらい、人を護る剣を説いた。それは、自分に言い聞かせていたんだ。自分の中に潜む剣鬼を封じ込めるために。〈大戦〉で、人を斬ることに悦びを感じた自分を否定するために」
「違うよ――師範は、だって、トーマくんのお爺さんでしょう、それを」
何が言いたいのか、自分でもよくわからない。ただ、トーマの妄言を黙って聞いていられない。
「爺さんの理想は正しいと俺も思った。だから一時、道場から離れて、剣道部を育ててみたんだ。でも、俺にもやはり剣鬼が眠っていた。抑えきれなかった。だからコウキを斬った」
「え?」
トーマが顔を上げて、その目でアユミを真っ直ぐに射た。
暗い洞窟のような底なしの深い闇をたたえた眼で――
「コウキを斬ったのは、カズヤでなく俺だ」
トーマはそう繰り返した。
*
同じ頃――
ユキトとロウは学院への帰路についていた。警察署でジンとカズヤの取り調べに立ち合っていたのだ。
ひと気のない早朝のヒビヤ通りを南下する。
「カズヤとやってる間、思ったんだよね」
ユキトが言う。アユミが聞いたら驚くような暗い声だ。
「まあまあの腕前だったよ。でも、本当にコウキを斬ったのかなって」
ユキトと並んで歩きながら、ロウは黙って聞いている。
「竜の仮面をつけて、ジン先生の魔術でイカれて――それでもあの程度しか暴れられないやつが、剣道部の副将を真っ二つにぶった斬れるかな。あれは、キレてウワーッてなってできることじゃない。冷静な殺意がないと無理」
「駅員は、結果的に亡くなっただけか」
「そう。やる気でやるのとは違う。自分の意志で、初めて人をやるときは、やっぱりキツいじゃん」
「そうだな」
ふたりの言葉には重い共感が流れていた。
経験者だからだ。
歴戦の衛士である以上、背負っていてしかるべき十字架だった。
刑事の尋問に割り込んで、ユキトはこの疑問をぶつけたのだ。
それでも、カズヤはコウキを斬ったと主張した。
――〈貴族院〉の代議士の息子を殺したとあっては、さすがに揉み消しは図れまい。あの男は政界の反感を買い、会社は傾くだろう……いい気味だ!
父親への恨み言を吐いて、ケタケタと狂的に笑った。負の感情を暴走させるジンの魔術と、ユキトの徹底的な追い込みによって、すでに精神がボロボロなのだった。
そのジンも、カズヤにやらせたと言い張って利かなかった。
――僕がウラヨコでヤマザキから呪面をふたつ買い、カズヤくんに与えて、魔術で操ったのです。まず、僕を蔑み、脅してきたコウキくんを始末させた。それから、カズヤくんの本来の目的である衛士の襲撃に向かわせた。それは巡視中の誰でもよかったのです。ヒトシくんでも、アユミくんでも。何も矛盾はありません。そうでしょう、刑事さん?
「なあ、ロウ」
ユキトが暗い面持ちで言った。「やっぱり、先生はトーマを庇ってるのかな」
「可能性は高い」
ロウの顔にも疲労の翳が濃い。
「ジン先生には、やったことを隠蔽しようという意志がまるで欠けている。自分とカズヤが派手に動いて、自分たちがすべての犯人だと積極的に誘導するかのようだ。自白が取れれば警察もそれ以上、学院がらみの事件に深入りはしない」
「やだなあ。アユが悲しいと、俺も悲しい」
「衛士でなくても、剣士でなくても、生きていくことはできる」
「わかってねえな、ロウ」
ユキトは口をとがらせ、ロウをちょっと心外そうな表情にさせた。
「衛士も剣も忘れられるようなやつならいいよ。アユはそうじゃない。悲しいまんま、刀を握るんだ」
やだなあ、とユキトは繰り返した。
アユミ本人には聞かせたことのない、寂しげな声である。
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