ユキトから静かな――しかし絶対的な圧力を掛けられたカズヤは、小声で何やらつぶやき始めた。
その姿が、アユミの目から不意に消えたのだ。
庭園にいる大半の者にとっても同じらしく、ざわめきが起こる。
「あら、この期に及んで――」
マダム・チヨコが言い、ロウが「小細工を」と吐き捨てる。
ふたりの反応でわかった。
アユミは思念を集中して、カズヤが立っていたところを凝視した。
地下鉄駅の事務室を覆い隠した結界――それと同じものをカズヤが自分の周囲に張ったのだ。
アユミの目が結界を視覚化し、半透明の大きな球として発現させる。その中に人影があって、少しずつユキトの左横に回り込もうとしていた。逃げずに不意打ちする気なのは賞賛に値するかもしれなかった。
「ユキトさん!」
「ありがと、わかってる」
アユミが呼びかけたユキトは、すでに反応していた。カズヤと同じ速度で左に身体を回し、軽く刀の先を振ると、迸った剣気がたちまち結界を破る。
カズヤは動きを止めた。顔はすでに死人のそれだった。
「準備はいいみたいだね。じゃあ行く」
ユキトは前進した。
目にも止まらぬ速さ――というわけではない。動きは見てとれる。だが、見えるだけで、反応できない。ユキト以外の全ての人間が、神の手で時間の動きを鈍くさせられたかのようだった。精妙を極めた動きはこうなるのだ。
カズヤの速度をゆっくりと遙かに上回って、ユキトは予告通りに肩口から斬りつけ――
当たる寸前で、止めた。
カズヤはがっくりと膝を突いた。その表情はどろりと濁って、通常の意識がある者なら決してあり得ないほど弛緩していた。
斬られたのだと、アユミは思った。
物理的に刃が肉体に食い込みはしなかったけど、ユキトの袈裟斬りは確かにカズヤを切断したのである。
「痛てーっ、こっちのほうが来る!」
間の抜けた叫び声を上げて、ユキトは刀を放り出した。
手を交差させて自分の二の腕をわしわしと揉む。振り抜くより寸止めするほうが筋肉に負担が来ると言いたいらしい。
長らくこの場を支配していた緊迫が、ゆっくりと解けていった。
真っ先にユキトに駆け寄る者がいた。
双つ結びを揺らして近づいたコノミは「この大馬鹿っ!」と叫んで、ユキトの頬に平手打ちを見舞った。いくらでも躱せるだろうに、ユキトは黙って受けた。
「お前はぁ! わたくしを見殺しにする気だったわね!」
「違うよ」
「嘘おっしゃい!」
「ほんとだよ」
「だって全然、まったく、助けようとしなかったでしょう! こいつが自分からわたくしを突き放す保証がどこにあったというの!」
「どうしようかなーって言ったのは冗談だよ。ごめんね」
女帝にものすごい剣幕で問い詰められても、ユキトはまるで動じない。
「カズヤがビビってくれたから結果的に手間は省けたけどさ、そうじゃなくてもコノちゃんのことは絶対に助けたってば」
「なぜ言い切れるぅ!」
「だって衛士だから」
ユキトはにっこりと笑った。
「でも怖かったよね。ごめんね、コノちゃん」
「そうよ……怖かったわよぉ」
コノミは涙ぐんで、ユキトの胸にどすどすとパンチを見舞った。
護身術の心得でもあるのか、なかなか鋭い正拳突きである。
「はっはっは。あれ、わりと痛いな」
「ユキト」
ロウが駆け寄った。「〈影縫い〉を力業で破れば、肉体に傷はつくぞ」
「そうなの。あ、コノちゃんにどつかれて、今ごろ血が出てきた」
ユキトのシャツやスラックスにぽつぽつと赤い染みが生まれ、コノミは「ひいっ」と叫んで手を止めた。
「わたくしに怪我人を殴らせないでちょうだい!」
「うん、ごめんね、怪我して」
コノミが責め、ユキトが謝るという珍妙な光景に、アユミは深くため息をついた。
それはあきれたのと同時に、安心した表現でもあった。
学院に日常が還ってきたのだ。
*
ジンとカズヤを警察に引き渡して、事件は解決した。
だが喪われたものは多い。
剣道部は廃部となるだろう。顧問の教師が違法行為にて、死者が出る騒動を起こしたのだ。学院も厳然とした態度を打ち出さねばならない。
不遇な幼少時代を送ったカズヤは、ゲオルギウス学院への入学も、放り込まれて隔離されるという色合いが濃かったようだ。つねに日陰の存在として扱われる鬱屈が、衛士というわかりやすい権力への執着に転じたのだろうか。
あくまでも事件の原因は、カズヤとジンの闇に堕ちた心にある。しかし、このふたりを特殊な例にして、それで忘れていい事件ではない。根底にあるのは、トーキョーとゲオルギウス学院が抱える歪みだった。
そしてアユミも、トーキョーで生まれ育った、学院の生徒なのだ。
こんな悲しい事件の再発を防ぐにはどうすればいいのか、我がこととして考えていかねばならないとアユミは思うのだった。
*
そして、翌日の朝――
「え?」
格技場の中央で、アユミはトーマを茫然と見つめた。
「コウキを斬ったのは、カズヤでなく俺だ」
トーマの言葉はそう聞こえた。
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