規模は小さいが、斯界で確固たる評価を得ている明鏡流のもとには、ときおり己の名を上げんとする道場破りが訪れる。
アユミが中学二年生のときだった。セイジ師範が亡くなった年である。
――ぜひ一手、ご教授願いたい。
そんな道場破りの常套句を述べて現われたのは、ある新進流派の師範代だった。三十代前半の男。実力に経験が加味されて、もっとも脂が乗った時期だ。
セイジさえ存在しなければ、他の門弟には勝てると踏んだのだろう。確かに、超がつく高齢にもかかわらず、セイジの力は群を抜いていた。
ただし道場破りは、セイジの孫がまだ少年だと見くびっていた。
その真価を見誤らなければ、トーマが学院から帰省している時期も避けたはずだ。
トーマは道場破りを一蹴した。
逆上した男は、観ていたアユミに斬りかかったのだ。眼鏡をかけた細身の少女――居並ぶ門弟の中で、いちばん与しやすそうに見えたのだろう。
決して腕の劣る男ではなかった。トーマが強すぎたのだ。アユミも他の門弟たちも完全に不意を突かれ、迫る死の一刀に、アユミは頭が真っ白になった。
気がつけば、右腕の肉を骨がのぞくほど斬り裂かれた男がのたうち回っており、アユミは男が持っていたはずの刀を手に、立ち尽くしていた。
状況が少しずつ頭に染みこんでくる。
床に散る大量の血飛沫、
男を取り押さえる門弟たち、
アユミの手からそっと刀をもぎ離すトーマ、
自分が相手の武器を奪って斬りつけた――それ以外の解釈はないことを悟った瞬間、アユミは再び気が遠くなって倒れた。
道場破りもアユミも、我を忘れていたがゆえの惨劇だった。
このころには、伸び悩んでいたことへの迷いも晴れ、少しは強くなったつもりでいた。だが、心は未熟なままだった。なまじ技術は向上していただけに、無用に相手を傷つけてしまった。
警察沙汰にはならなかった。十六歳の少年に負けた腹いせに十四歳の少女を襲って、さらに返り討ちに遭ったのだ。こんなみじめな事実が公になれば、男が属する流派にとって致命的である。
それから半月ほど、アユミは刀を執らなかった。
自分の弱さに怯えた。
このまま辞めてしまうことすら考えた。両親はそれを望んだ。
でも、棄てられなかった。
明鏡流が好きだった。自分から逃げるのが嫌だった。
*
「まだ、少し怖いんだ」
声が震えるのをアユミは自覚した。喉に力を篭めて震えを抑え、
「でも、もう誰も不用意に傷つけない。傷つけなくても済むくらい、必ず強くなる。それまでは――」
留め金は、そんなアユミの自戒の証であり、誓いの形なのだった。
そのことについて、トーマはもう、何も言わなかった。
ただ「抜いてもいいか」と訊いてきた。アユミはうなずいた。
留め金をはずして、トーマはゆっくりと刀を抜いた。
「大した業物だ」
小窓から射しこむ陽光に刃をかざして、感嘆する。
「古刀じゃないな。麗市あたりか」
トーマは銘を確認するまでもなく、刀工の名前を言い当てた。
レイイチはまだ三十代の、新進気鋭の刀鍛冶である。〈戦前〉に精製された合金なども大胆に用いつつ、あくまでも伝統的な製法に則って質実剛健な刀を打つ、若き匠として注目されている。
「高かったろう」
「ローンを組んでもらって、なんとか」
奨学金の一部を返済に宛てている。
トーマは〈仮想球〉に手を伸ばした。
「使い方はわかる?」
「以前に衛士団から借りたことがある」
アユミは退がった。兄弟子の技を見るのは久しぶりである。
トーマが思念を凝らすと、墨色の水晶球が淡く光り、西洋剣を手にした影が立ち上がってきた。
巨漢だ。百九十センチは下らない。でくの坊を喚び出したわけではないのは、放たれる殺気でわかる。
「シッ」
鋭い呼気とともに、何の予備動作もなく、トーマは右手で刀を振った。
たったそれだけの、誰でもできそうな動きに、見ているアユミは完全に虚をつかれた。対面していれば、ただ棒のごとく斬られていたに違いない。誰でもできそうで、誰にもできない。無駄がない。だから美しい。それが技と呼べるものだった。トーマが動けば、それが技になるのだった。
もちろん仮想の敵も反応できず、音も立てずに斜めに斬れた。
少し間を置いて、ゆっくりと身体の上部が切断面を滑って、ごろりと転がる。
力まかせでは決して成しえない、研かれた技の凄みだった。
「手入れは怠っていないな」
自分の技の成果にはさして関心を払わず、トーマは刀を眺めてうなずいた。
「無闇に抜かなくてもいいさ。でも、錆びつかせるなよ。斬らないのと斬れないのは違う」
錆びつかせるなとは、刀のことでもあり、アユミのことでもあっただろう。
「うん」
アユミはうなずいた。
この尊敬する少年が、一人前の剣士と認めてくれていることに恥じぬ自分であろうと、誓いを新たにした。
*
そして、トーマと別れて衛士団本部に向かう道すがら、アユミは思ったのだ。
状況が落ち着いて、朗読会の開催が決まったら。
――トーマくんを、誘ってみようかな。
キョウコの望み通り着飾るかどうかはともかく、せっかく一年間だけ同じ学舎にいるのだから、その間に何かひとつくらいトーマといっしょに学院生活を楽しんだ思い出をつくるのは、いいことかもしれない。
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