剣の乙女と学院騎士団

秋永真琴
秋永真琴

4 どうしてあなたが

公開日時: 2020年9月29日(火) 10:00
文字数:1,928

 アユミを見下ろすユキトから、怒りや悲しみの気配はまったく届いてこない。

 いつものユキトと同じく、呑気な声であり、表情であった。


「アユ、ヒトシが怪我したのは悲しい?」

「えっ……?」


 何を訊かれているのか、よくわからなかった。


「コウキが死んだことよりも?」

「それは……」


 続けて発せられた問いで、少し、ユキトの言いたいことはわかった。アユミがわからないのは、そんなことを言い出したユキトの意図だった。治療院の廊下が、すっと冷え込んだような気がした。


「コウキさんのことを軽んじているわけではありません。ですが――やはり、ヒトシくんは、わたしたちの仲間なので」

「だから?」


 アユミは、自分の耳を疑った。


「それがどうしたの」


 目も疑った。自分が見上げている金髪の少年は、誰だろう。

 アユミの知っている、幼稚なくらい喜怒哀楽を素直に表わしてきた団長代理ではないのか。これもまた、ユキトの素直な態度だというのか。


「衛士は学院を護る。学院生のために死ぬ。そういう衛士が、ふつうの生徒より衛士の命を大事に思うのは、ちょっと違うんじゃねえの」


 まったく血の通わない理屈だった。明るい口調に不釣り合いな冷徹さに、言い返す言葉も凍りついて、アユミは唇をふるわせたが――


「ヒトシがもう少し強かったら、こうはならなかった」


 ユキトは、そう言った。

 アユミの中で、何かが弾けた。


「ちょっと待ってください、ユキトさん、何を言って――」


 よろめくようにベンチから腰を浮かせて、ユキトに詰め寄る。

 アユミの眼鏡の向こう側で、団長代理は穏やかな表情を変えず、重ねて言い放った。


「ヒトシが悪い」


 ユキトが滑るように後方へ流れた。

 小柄な身体が廊下の壁にぶつかった。

 ユキトの胸ぐらと袖口を、指の長い左右の手がつかんで、ひねり上げていた。それはアユミの腕に繋がっていた。


 ――ユキトさんは、ただ強いだけじゃありません

 ――自由を貫き通しているユキトさんを、自分は尊敬しています


 爽やかな熱を帯びたヒトシの言葉が、アユミの耳で揺れている。


「悲しくないの?」


 そう、訊いたと思う。


「ヒトシくんは、あなたみたいな人を、あんなに慕って……!」


 そうも言ったと思う。


 ユキトの表情は、変わらなかった。

 壁に押しつけられながら、アユミを静かに見つめていた。それは記憶にはっきりと刻まれている。


「どうしてあなたが――」


 激情のままに、アユミは何と言おうとしたのだろう。「団長代理なんですか」かもしれない。「あのときの〈少女〉なんですか」だったのかもしれない。

 皆まで言う前に、アユミの身体がふわりと宙へ跳ね上げられたのだ。

 そのまま、廊下の床に投げ出された。

 ロウが、座り込むアユミを厳しい目で射ていた。

 この副団長が、アユミをユキトからもぎ離しつつ足払いを掛けたのだと、腕とくるぶしに残る感触でわかった。


「俺、先に帰る。後はロウに任す」


 ユキトは言い残して、パコパコとサンダルのかかとが立てる音を廊下に響かせ、歩み去っていく。

 その背中を、アユミは茫然と見送った。

 なぜ、よりによってこの状況で、ふだんのユキトらしさをいっさい廃した態度になるのか。怒りと不気味さがい交ぜになって、アユミの全身をこわばらせていた。


「立てるか」


 ロウに呼ばれて、我に返った。

 一時、せき止められていたものが、揺り戻しを受けてあふれてきた。


「副団長! 今の、何ですか、あの人! あんな、あんな言い方って――」

「察しろ。あれが団長代理だ」

「何が代理ですか、いつも適当なくせに、こんなときだけ!」

「アユミ」


 ロウは、声を高めたり荒げたりしなかった。

 しかしそれは、アユミの激昂をさえる重さを十分に含んだ声だった。


「――失礼しました」


 のろのろと身を起こすアユミへ、ロウは静かに言った。


「過ぎたことで自分を責める暇は、俺たちにはない。それは俺も、副団長としてアユミに言わせてもらう」


 アユミは息を呑んだ。こちらも熾烈な言葉だった。

 これが、衛士の世界なのか。自分はまだ、衛士を甘く考えていたのか。


「ヒトシは、逃げることはできただろう。アユミを呼ぶことも。だがそれは放棄した。衛士として」

「それは――」


 どういうことですか、と尋ねようとしたとき、


「お伝えします!」と、伝令役の衛士が駆けこんできた。

「現場検証が終了したそうです。警察の方が遺留品を返却してくれました」

「ご苦労」


 伝令からロウが受け取ったものを見て、アユミは血の気が引いた。


「これは!」

「敵からむしりとったものだろう。ヒトシは、よくやった」


 これを守っていたのだ――ヒトシはこれを腹に抱えこんで、襲撃者になます斬りにされても、アユミが助けに来ても、身体を固くして離そうとしなかったのだ。

 それは、べっとりと付いた血痕が生々しい、竜の顔をかたどった仮面であった。

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