「それは――それは、先生の見まちがいじゃありませんか」
ほとんどすがるような気持ちで、アユミは訊いた。
どんな出自であっても、ジンはジンだ。その女性に、多少の驚きや抵抗感は生まれてしまったのかもしれない。でも、気持ちがそこまで一変するなんて。
ジンはアユミを憐れむように笑った。
「ぼくの被害妄想かい? そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。ただ、ぼくが彼女とそれきりになったのは、揺るぎない事実だ」
それ以上、ジンが感じたことを否定することはできなかった。
アユミも、この世界が無菌室でないことはわかっている。
カズヤの悪意。コノミの特権意識。
女であること、庶民であることで、彼らはアユミを責めた。重みは比べようもないが、ジンが受けた仕打ちと構造は同じではないか。
「アユミくんも苦労していると、生徒たちの噂で聞きます。どんな者も護るのが衛士の務めとはいえ、恨みごとのひとつも言いたくなるときがあるでしょう」
「そんなことは――」
絶対ないと断言することは、アユミにはできなかった。そうかもしれないと、考えてしまうのだった。
「それでも、ぼくは耐えるつもりでした。あくまでもプライベートな問題だ。だが、同じ理屈でぼくを排斥したがる者は、すぐそばにもいた。わかりますか」
もはや、それは問いではなかった。確認だった。
「コウキくんです」
アユミの心臓は鼓動を早めていた。喉が渇いた。
信じたくなかった。トーマくんが信頼していた人が、まさか、そんな――
しかし、ジンはアユミの淡い期待を破っていく。
「ある日、彼はぼくを呼びつけて言った」
――先生、学校を辞めていただけますかね。学院の剣道部に所属してきたことが、俺の経歴の瑕になってしまうので。
アユミは目を閉じて、息を吐いた。
トーマや部員たちにとって、よい副将だったのは嘘じゃないのだと思う。その差別的な信条に触れさえしなければ。人間が持つ多面性の無惨さであった。
「彼の父親は〈貴族院〉の有力な代議士だ。財界人とも交流が深い。その伝手で、ぼくにまつわる噂を聞きつけたのだろう。コウキくんの目は、あのときの彼女と同じでした。そうか、彼女が特別おかしかったんじゃない。ぼくはこの目から一生逃れられないのだと確信した」
わかってはいけない。理解はしても、同調してはいけない。
そんな思いと裏腹に、アユミはジンの焦げついた憤怒が、身体の芯に染み込んでくるのを感じた。
「ぼくが生きていること自体が罪なのか。ならばすべては徒労だ。壊すしかない。壊せるだけ壊して、ぼくも壊れる」
アユミくん、とジンは呼んだ。「ぼくはおかしいですか。間違えているのは認めます。だが、どう運命に抗っても、間違えるしかなかったぼくを、きみはおかしいと思いますか」
アユミは唇を噛んだ。その痛みで、何か言うのをこらえた。
返事をしてはいけない……ジン先生に同意してはいけない……
しかし、理性がそう命じたこと自体が、アユミの回答であった。自分が差別される立場だったら、耐えられるだろうか。笑っていられるだろうか。
視界が狭まる。ジンの他には、何も目に映らなくなる。
唇の端が破れて、血が垂れる。
それでも、意識はじょじょに遠のいていく。
キョウコさんや、衛士のみんなはいい人たちだ。でも、ジン先生だって、トーマくんだって裏切られた。わたしの周囲の人たちだって、何を心に秘め、いつ牙を剥くかはわからないのでは? わたしの心情にもっとも近いのは、ジン先生では?
アユミの意識が、肉体からずれて、浮き上がっていく。
ジンの意識が触手を伸ばして、アユミの裸の意識をざわざわと愛撫していく――
「うらあっ!」
パァンッ!
裂くような怒声と、手を叩く破裂音が、落雷のごとく耳朶を打った。
物理的に頭を打たれるのと等しい衝撃が襲ってきて、アユミは壁に倒れ込み、そのままもたれかかった。
全身から粘ついた汗が噴き出し、足に力が入らない。高熱で寝込んでいるのにむりやり引きずり起こされたような心地だった。
「目ぇ覚めた?」
ユキトが、椅子から立ち上がっていた。
口を尖らせて、アユミとロウを不服そうに見やる。
「やさしいのと甘いのとは違うぜ。アユはさぁ、俺に対する厳しさの十分の一くらいは他の人にも向けてみてくれない? ロウもしっかりしなよ。どうした? 疲れてる? 飴食べる? あっアユが『副団長が疲れてるのはユキトさんのせいですっ』とか言いそうっ」
「――すまん。面目ない」
床にしりもちをつくロウが、こめかみを押さえて呻いた。
この副団長が、ぶざまに椅子から転がり落ちたとは! アユミと同じく、ジンの負の感情に同調して意識を奪われかけていたのか。
魔術だ。
魔術師の末裔としてのジンが行使した〈旧魔術〉が、無色無臭の毒ガスのごとく、アユミとロウを蝕んでいたのだ。
ユキトが裂帛の気合で、精神支配の魔術を破らなかったら、アユミは完全に取り込まれていた。衛士の闘争の奥深さを思い知らされる。少し剣の腕が立つだけではやっていけない。
「ユキトくん――きみは何者だ」
ジンは心底からの驚愕で歪んだ顔をユキトに向けた。
「同調もしない、反発もしない、ただぼくの魔術を受け流して無効とする精神の境地は、いったいどれほどの修業を――」
「わかんない。バカなだけじゃね?」
そう言って、ユキトはさばさばと笑う。
「先生の気持ちも、わかんないです。ごめんね。でも、簡単にわかるって言っちゃいけないのは、俺でもわかる。ほんとだよアユ」
「いちいち……確かめなくてもいいです……」
言い返すのもひと苦労だった。全身の倦怠感がすさまじい。
「俺は、先生の気持ちは考えないで、俺が思ったことをそのまんま言います」
団長代理は教師をまっすぐに見つめた。
「そんなふうに魔術を悪用するのは、先生の元恋人が決めつけた通りの人間です。そのほうが楽かもしれないよ。でも悔しくない? やめなよ。かっこ悪いよ」
単純な――あまりにも単純な正論だった。
こんな正論をためらいなく吐き――しかし、そこに空虚な響きがまるでないのは、なぜなのか。眩しすぎる。
アユミは初めて、畏怖を持ってこの金髪の少年を見た。
ジンは張りつめたものがとうとう切れたように、額を抱えてうつむいた。
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