*
トーマが挨拶代わりに放った一閃を、コウキはさすがの足捌きで躱した。
「まさか、トーマか……?」
茫然とした表情が、たちまち憎々しげに歪んでゆくのを、トーマは竜の仮面越しに見つめた。目の穴は空いていないのに、視界は何も着けていないように良好だ。
アオヤマの暗い夜道で、剣道部の主将と副将は睨み合った。
「あの棄民に泣きつかれたか。答えろ、トーマ!」
「先生をそんなふうに呼ぶのはよせ」
トーマは口を開いた。コウキに対して正体を隠すつもりはなかった。
その意味に気づいて、副将は声を震わせた。
「殺す気か……お飾りの顧問に安い同情をかけて、苦楽を共にしてきた俺を殺すのか、お前は……!」
「先生がどんな生まれだろうと関係ない。ここは現代のトーキョーだぞ」
「お前を認めていた。初めて、他人の下に付いていいと、本気で思えたんだ。それを――」
コウキの恐怖はたちまち怒りへと転じたようだった。
それでこそ弘毅=ユンファだと、トーマは嬉しく思った。その傲慢なほどの闘志が、いつも部員を引っ張り、大会で勝利をもたらしてくれたのだ。
「失望したぞ、トーマ――お前もやはり、下らない庶民感情に流される凡人か!」
「俺も、コウキのことは尊敬していたよ。残念だ」
嘘だ。誰かがトーマの耳もとでささやいた。お前は残念がってなんかいない。コウキと本気で殺し合えるのを、お前は悦んでいるじゃないか。ささやきは自分の声に似ていた。これが剣鬼の声なのだと思った。
筋肉が異様な熱を帯びている。経験はないが、薬物を射ったらこんな感じだろうか。〈旧魔術〉の呪面による殺人への禁忌の解除は、しかし、トーマには必要なかったかもしれない。湧き上がる昏い高揚は、もともと自分の身の裡にあったものだ。
コウキが刀を抜いた。
代議士の父親の権力で〈武装許可〉を得ているコウキが、出稽古のときに真剣を携えているのを、トーマは知っていた。
「そのふざけた仮面を取れ、トーマ。いまお前がどんな顔をしているのか、俺に見せろ!」
「目障りなら、力ずくで外せ」
「この――裏切り者!」
コウキが素晴らしい歩法で迫ってくるのを、トーマは恍惚と迎えた。
烈しく打ち合う鋼と鋼の響きが、夜空に吸いこまれる。二度、三度。
そして。
*
「コウキを両断する感触は、意外と軽かったよ。上手くいくときは、そんなものだ」
トーマの淡々とした独白を聞きながら、アユミは頭がぼんやりしてきた。
わたしは寮の部屋で、まだキョウコさんといっしょに眠っているんじゃないか。溜まった疲れがこんなひどい夢を見せているんじゃないか――心の底からそれをアユミは望んだ。
「嘘でしょう、トーマくん――ねえ、トーマくん!」
たまらず、アユミはトーマに近づいた。
チン、と鯉口を切る音がした。
飛び退ったのは剣士の本能だった。
トーマの片手薙ぎが空を切った。渾身の一撃ではないが、手加減もしていない。一瞬でも反応が遅れたら、それで終わっていた。アユミは胴から血を噴いて倒れているはずだった。トーマの手で。
振った刀を引き戻して、トーマはアユミを睨み据えた。
磨き抜かれた鋼が、朝の光を跳ね返す。
「アユミも抜くんだ」
「待って! 待ってよ!」
アユミは声を裏返して叫んだ。
「トーマくん、治療院に行こう。きっと仮面の魔力の後遺症だよ。そうだ……ジン先生がトーマくんにも精神魔術をかけたのかも。でも、治るから。大丈夫だから」
「違う」
トーマは静かに言った。
「先生はカズヤに全ての罪を着せて、俺を庇おうとしてくれた。衛士を斬ったのはカズヤだ。でも、コウキを斬ったのは俺なんだよ。同情できる理由はない。先生のせいでも、仮面のせいでもない。俺が、斬りたいから、斬ったんだ」
「仮に――仮でも絶対にあり得ないけど、トーマくんが真犯人だったとして――」
悪夢の沼に沈み続ける心地のまま、アユミは最大の疑問を口にした。
「なぜ、わたしを?」
「アユミは衛士だ」
「そうだよ……」
「ならば、学院の敵とは全力で戦わなければいけない。そうだろう」
トーマは両手で刀を握った。
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