衛士団本部の一階は、大部分が鍛錬場となっている。
トレーニングマシンで筋力の増強に励む者、剣や槍の素振りをする者、座禅を組んで瞑想にふける者などが、ガラス戸越しにうかがえた。
挨拶はしなくてもいいことになっている。アユミはそっと階段を昇った。
二階の事務室には、朧=クライン=タブがいた。
十一年生にして、副団長。
焦げ茶色の癖毛を長めに伸ばし、ひきしまった顎に無精髭をまばらに生やしている。だらしなく見えそうなものだが、不思議と乱れた感じがしない。
「おはようございます」
アユミの敬礼に、ロウは軽くうなずいた。それだけだった。
無愛想なのは、つねに大量の仕事を抱えているからだ。大物ぶってわざと傲慢にふるまう人間ではない。
ロウの机の上で、書類が山脈を形成している。それらにすごい速度で目を通し、より分け、内容を頭に刻み込み、決裁が要るものには判をつき、いちど読めば不要なものは廃棄する。
各方面から寄せられた情報に基づいて学院やトーキョーの最新の情勢を分析し、衛士たちに適宜、指示を出す。それがロウの日課であった。
「これを見ろ」
そんな書類の一枚をロウに差し出されて、アユミは受けとった。
一読して、顔をしかめた。
大げさだが中身のない文章で、学院への脅迫が綴られている。
――資本家からの寄付金で肥え太っている俗悪な学校に猛省を促す。改善されない場合は天誅を下す。
だいたいそんな趣旨だ。署名はない。具体的な要求もない。
「何ですか、これ」
声が硬くなった。
こういう文章を、匿名で送りつけてくる者がいる。内容よりも行為そのものに、アユミは嫌悪を感じた。
「どこかの団体の犯行声明でしょうか」
「わからん。こんなものは月に何通もある」と、ロウは説明する。
ふだんはさっさと処理しているのだろう。新人のアユミへ、後学のためにあえて見せてくれたのだ。
「社会への不満や個人的な鬱憤が学院にぶつけられる」
「なぜ、このようなことを」
「暇なのだろう」
「暇、ですか」
「俺やアユミにこんな駄文を書く暇はない。たとえ反社会的な存在でも、それなりの信念があれば、もう少しましな言葉が出てくるはずだ」
簡潔で辛辣な感想だった。
以前に聞いたのだが、ロウが衛士団に入ったのは四年生のときだという。
十歳。そんなころから、足かけ八年にわたって学院の守護の最前線に立っていれば、こんな怪文書の何十倍も濃厚な、無数の悪意と対峙してきたにちがいない。
アユミは文書をロウに返した。
「ありがとうございます」
「悪戯だとは思うが、いちおう頭に入れておいてくれ。特別な引き継ぎはない」
「了解です」
わたしもこんなふうになれるだろうか。いつかはならなきゃ――
そんな思いを抱きながら、アユミはふたたび敬礼した。ロウの鋭い目が、わずかにやわらかい光を帯びる。
――おはよー
階下から、のんきな声が届いてきた。
――朝からがんばってるね。えらいね
――俺、眠たくて眠たくて。やっぱり昼まで寝てようかな
――朝飯、なに食べたの。まじ? そんだけ? 足りる?
――えっ、なにその技。かっけーなー
鍛錬場にいる面々につぎつぎと話しかけているようだ。
気さくなのはけっこうだが、どう考えてもみんなの集中力を削いでいる。そもそもこの階まで響くのは声が大きすぎる。
アユミは息を吐いて、眼鏡の位置を直した。
「ロウー、アユー、おっはよー」
敬礼もへったくれもない。初等部の児童みたいに大きく手を振って、雪都=シュッテンが二階に上がってきた。
絹糸みたいな金髪を無造作におろした、小柄な少年だ。
現われたユキトを、アユミは頭から足まで見下ろした。
上着がない。ネクタイを締めていない。それはまだしも、シャツの胸元を開け、裾を垂らしている。素足にサンダル履きだ。
規律を守ることが当然という気風のこの学校では異常とさえ言える。
「おはようじゃありません」
無駄だと思いつつ、アユミは意見を試みた。
「えー、だって朝じゃんか。まだ思いっきりおはようの時間だよ」
「そうじゃなくて。ユキトさんがそんな格好では、他の生徒に示しがつきません」
「だって今日は暑くなるらしいぜ。暑いとやる気がなくなるよ」
「暑かろうが寒かろうが初めてお会いしたときからユキトさんはずっと同じような格好だしやる気もないじゃありませんか」
「ロウ、アユがいきなりバチクソに早口で態度悪いよ。なんかあったの。失恋とか」
ユキトは唇をとがらせる。ロウは無視して自分の作業に集中している。
「ユキトさん、わたしは悲しいです。こんな人が先輩だなんて。しかも――」
「元気出して? アユが悲しいと……俺も悲しい……」
「だったら悲しませないでください」
アユミは語勢をゆるめない。先輩に対する態度ではないとわかっているが、本人を目の前にすると止まらない。
ユキトの童顔に、恨みがましい色がついた。
「アユの怒りんぼ」
「だったら怒らせないでください」
「自分のメンタルは自分でコントロールしようね」
「ユキトさん!」
ついにアユミは机を手のひらで叩いた。
衝撃で書類の山が傾く。ロウは無言で手を添えて、崩れるのを防いだ。
「ああっ、ごめんなさい!」
「ロウの邪魔をしちゃだめだよ、アユ」
憎たらしい言葉を重ねながら、ユキトは階段と逆側の、事務室を一望できる席に座った。
専用の机が割り当てられているのは、団長、副団長、役職つきの幹部のみで、平の団員は数人で供用となる。ユキトが座っている机は、団長のものだ。
それが悪ふざけならよかったのに、とアユミは思う。
確かにそこがユキトの席なのだった。
ただし、代理だ。真の団長は昨年から極秘任務で長期の遠征に出ているというが、どちらにせよ、アユミはいまだに信じられなかった。
この人が団長代理だなんて。むしろ衛士に取り締まられる側じゃないの――
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