剣の乙女と学院騎士団

秋永真琴
秋永真琴

3 結界を斬る

公開日時: 2020年9月28日(月) 10:00
文字数:2,054

 アユミは薄暗い構内に降りた。

 右手に自動券売機、正面に改札口。ごく一般的な、トーキョーの地下鉄の駅だ。

 階段のすぐそばにトイレがある。男子用も、念のため女子用も覗いてみたが、誰もいなかった。

 ヒトシを探して、アユミは必死に視線を巡らせた。

 また駅員さんに許可をもらって、プラットホームも見せてもらおう――そこまで考えて、異常に気づいた。冷や汗が背中に滲む。

 事務室がない。

 ないはずがない。ついさっき、事務室に入って、駅員と「失礼します、衛士の巡視です」「おう、ご苦労さま。大変だねえ」なんて挨拶を交わしたではないか。

 自分の頭を疑いかけて、アユミはある可能性に行き当たった。


 物理的に消滅させるのではない。大がかりな〈旧魔術〉でなくとも、事務室を消すことはできる。見る者の意識を逸らして、すぐそばに在るものを在ると気づかぬようにしてしまう魔術が、トーキョーには現存する。

 結界が張られているのだ。


 アユミは瞳を閉じて、心気しんきを凝らした。

 大きく呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。鏡のように曇りなく、水のように淀みなく、感覚を平らかに研ぎ澄ます。

 目に視えないものを、察知するのだ。

 まぶたの裏に映像が浮かんだ。

 事務室を覆い隠すようにして、半透明の膜がかかっている。ビニールでできた大きな球をアユミは連想した。

 目をつむったまま、刀の鍔にかけた留め金を外す。

 柄をにぎり、親指で鯉口を切る。


 ――錆びつかせるなよ。斬らないのと斬れないのは違う。


 トーマの声が耳に蘇る。大丈夫だよ、と胸の裡で応えた。明鏡流めいきょうりゅうは、魔術も斬れる。

 腰の重心をぐっと低くして――


「いええいっ」


 気合一閃、刀を抜き打った。

 銀光が弧を描いてはしる。

 水を裂くような手応え――不可視の結界は破れた!

 幻影のビニールがめくれ上がって、霧散するのがわかる。


 アユミは目を開いた。

 景色があるべき姿に戻っていた。右手に自動券売機、正面に改札口。

 そして左手に、事務室の鉄の扉がある。

 刀を収めながら、体当たりするようにして扉を開けた。


 錆びたような生臭さに包まれて、気が遠くなりかけた。

 予想しうる通りの、最悪の光景が広がっていた。

 監視モニターの横に、駅員が倒れている。四十代後半――アユミの父と同じ歳ごろの男性は、胸から大量の血を流して、濁った目に虚空を映していた。こと切れているのは明らかだった。

 壊れた椅子や机、散乱する書類の向こう側に、赤い髪の少年がくずおれていた。身体を丸めて、血溜まりに浸かったまま、かすれた呼吸をしている。


「ヒトシくん!」


 アユミは悲鳴をあげて走り寄った。

 腕、肩、背中――いたるところが裂けて、制服が赤黒く染まり、元が何色だかわからなくなっている。

 抱え起こそうとするが、石みたいに動かなかった。無意識のうちに抵抗しているのだった。胎児のような姿勢を崩さないことが、自分に課せられた最後の使命であるかのように。

 アユミは卓上の電話に飛びついた。

 電話機も血塗られているが、回線は生きていた。

 番号を間違えるな、番号を間違えるな――それだけを念じて、震える指で衛士団本部を呼び出す。向こうの受話器が上がるや否や、誰なのかも確かめずに叫んだ。


「駅に! 駅に来てください! ヒトシくんが!」



     *



 ヒトシは学院付属の治療院へと搬送された。

 高度な現代医学を修めたスタッフはもちろん、呪医ウィッチ・ドクターも擁している。規模は小さいが、質では生半可な総合病院を上回る施設だった。

 治療院の廊下のベンチに座って、アユミは自分の身体を抱くように腕を組んでいた。

 ベンチのクッションが固いのか柔らかいのか、よくわからなかった。血みどろのヒトシが脳裏に消えては現われた。抱えたときの重さが腕に生々しく残っている。

 電話で助けを求めることができたのは幸運だった。襲撃者が電話線を断たなかったのは、時間がなかったのか、そこまで気が回らなかったのか。

 医師の説明を受けたロウが、アユミの元に戻ってきた。


「呪術治療を併用して、後遺症もなく、三週間で退院できるそうだ」

「三週間も――」


 と、アユミはつぶやいた。

 ふつうの病院の数倍の速度で治るのに、それでも三週間かかるのだ。どれほどの重傷だったのか。それでも、最悪の事態は免れた。

 安心する代わりに、棚上げされていた悔恨が膨れ上がってきた。


「わたしが、もっと早く気づいていれば。いや、ちゃんと地下まで付いていけば」


 要人を警護していたのなら、そこまで徹底しただろう。同期の衛士という馴れた関係が、かすかな油断を生んだ。何ごともなければ油断とまでは言えなかったような隙を、痛烈に突かれた。

 おそらく、ヒトシはトイレに行く前に、事務室の中で駅員が襲われているのを目撃したのだ。アユミを呼ぶ余裕もなく、事務室に飛び込んだ。

 駅員とヒトシを手に掛けた襲撃者は、結界を張り、線路を伝って隣の駅から逃走したと思われる。

 ほんの一、二分の間に起こった闘争の、凄惨な結末であった。

 うなだれるアユミの頭上から、


「違うんじゃねえの」


 場違いなほど明るい声が降ってきた。

 のろのろと顔を上げたアユミを、ユキトが見下ろしていた。ふだんと同じ顔で。

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