アユミは薄暗い構内に降りた。
右手に自動券売機、正面に改札口。ごく一般的な、トーキョーの地下鉄の駅だ。
階段のすぐそばにトイレがある。男子用も、念のため女子用も覗いてみたが、誰もいなかった。
ヒトシを探して、アユミは必死に視線を巡らせた。
また駅員さんに許可をもらって、プラットホームも見せてもらおう――そこまで考えて、異常に気づいた。冷や汗が背中に滲む。
事務室がない。
ないはずがない。ついさっき、事務室に入って、駅員と「失礼します、衛士の巡視です」「おう、ご苦労さま。大変だねえ」なんて挨拶を交わしたではないか。
自分の頭を疑いかけて、アユミはある可能性に行き当たった。
物理的に消滅させるのではない。大がかりな〈旧魔術〉でなくとも、事務室を消すことはできる。見る者の意識を逸らして、すぐそばに在るものを在ると気づかぬようにしてしまう魔術が、トーキョーには現存する。
結界が張られているのだ。
アユミは瞳を閉じて、心気を凝らした。
大きく呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。鏡のように曇りなく、水のように淀みなく、感覚を平らかに研ぎ澄ます。
目に視えないものを、察知するのだ。
まぶたの裏に映像が浮かんだ。
事務室を覆い隠すようにして、半透明の膜がかかっている。ビニールでできた大きな球をアユミは連想した。
目をつむったまま、刀の鍔にかけた留め金を外す。
柄をにぎり、親指で鯉口を切る。
――錆びつかせるなよ。斬らないのと斬れないのは違う。
トーマの声が耳に蘇る。大丈夫だよ、と胸の裡で応えた。明鏡流は、魔術も斬れる。
腰の重心をぐっと低くして――
「いええいっ」
気合一閃、刀を抜き打った。
銀光が弧を描いて奔る。
水を裂くような手応え――不可視の結界は破れた!
幻影のビニールがめくれ上がって、霧散するのがわかる。
アユミは目を開いた。
景色があるべき姿に戻っていた。右手に自動券売機、正面に改札口。
そして左手に、事務室の鉄の扉がある。
刀を収めながら、体当たりするようにして扉を開けた。
錆びたような生臭さに包まれて、気が遠くなりかけた。
予想しうる通りの、最悪の光景が広がっていた。
監視モニターの横に、駅員が倒れている。四十代後半――アユミの父と同じ歳ごろの男性は、胸から大量の血を流して、濁った目に虚空を映していた。こと切れているのは明らかだった。
壊れた椅子や机、散乱する書類の向こう側に、赤い髪の少年が頽れていた。身体を丸めて、血溜まりに浸かったまま、かすれた呼吸をしている。
「ヒトシくん!」
アユミは悲鳴をあげて走り寄った。
腕、肩、背中――いたるところが裂けて、制服が赤黒く染まり、元が何色だかわからなくなっている。
抱え起こそうとするが、石みたいに動かなかった。無意識のうちに抵抗しているのだった。胎児のような姿勢を崩さないことが、自分に課せられた最後の使命であるかのように。
アユミは卓上の電話に飛びついた。
電話機も血塗られているが、回線は生きていた。
番号を間違えるな、番号を間違えるな――それだけを念じて、震える指で衛士団本部を呼び出す。向こうの受話器が上がるや否や、誰なのかも確かめずに叫んだ。
「駅に! 駅に来てください! ヒトシくんが!」
*
ヒトシは学院付属の治療院へと搬送された。
高度な現代医学を修めたスタッフはもちろん、呪医も擁している。規模は小さいが、質では生半可な総合病院を上回る施設だった。
治療院の廊下のベンチに座って、アユミは自分の身体を抱くように腕を組んでいた。
ベンチのクッションが固いのか柔らかいのか、よくわからなかった。血みどろのヒトシが脳裏に消えては現われた。抱えたときの重さが腕に生々しく残っている。
電話で助けを求めることができたのは幸運だった。襲撃者が電話線を断たなかったのは、時間がなかったのか、そこまで気が回らなかったのか。
医師の説明を受けたロウが、アユミの元に戻ってきた。
「呪術治療を併用して、後遺症もなく、三週間で退院できるそうだ」
「三週間も――」
と、アユミはつぶやいた。
ふつうの病院の数倍の速度で治るのに、それでも三週間かかるのだ。どれほどの重傷だったのか。それでも、最悪の事態は免れた。
安心する代わりに、棚上げされていた悔恨が膨れ上がってきた。
「わたしが、もっと早く気づいていれば。いや、ちゃんと地下まで付いていけば」
要人を警護していたのなら、そこまで徹底しただろう。同期の衛士という馴れた関係が、かすかな油断を生んだ。何ごともなければ油断とまでは言えなかったような隙を、痛烈に突かれた。
おそらく、ヒトシはトイレに行く前に、事務室の中で駅員が襲われているのを目撃したのだ。アユミを呼ぶ余裕もなく、事務室に飛び込んだ。
駅員とヒトシを手に掛けた襲撃者は、結界を張り、線路を伝って隣の駅から逃走したと思われる。
ほんの一、二分の間に起こった闘争の、凄惨な結末であった。
うなだれるアユミの頭上から、
「違うんじゃねえの」
場違いなほど明るい声が降ってきた。
のろのろと顔を上げたアユミを、ユキトが見下ろしていた。ふだんと同じ顔で。
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