トーマの胸を借りるつもりだった。
持っている全部を、出すのだ。わたしの全てを叩きつける。それでどうにかなってしまうような相手ではない。わたしが倒れても、ユキトさんがいる。彼ならば、確かにトーマくんとも互角に戦えるのだろう。真面目にやってくれるかな。ヒトシくんのことでカズヤさんに怒ったように、わたしが死んだら真面目にやってくれるはずだ。学院のみんなが大好きな人だから――
そんなふうに思い定めたら、ずいぶん楽になった。
幼なじみは、再び右八双の構えだ。
さっきは、言葉では埋めがたい溝を感じた。うろたえて、絶望しかけた。
でも、自分たちにはもうひとつの言語がある。
ひとつ、深呼吸をした。
それからアユミは前進した。
片手で斬り上げる。避けられた。
斬り上げが頂点まで達したところで、もう片方の手を添えて斬り下ろす。躱された。
突きへと転じる。刺した――だが残像だ。
様子見ではなかった。いきなり決めるつもりだった。その三段構えの連撃が、淀みなく無効化される。それがトーマだと感嘆する。感嘆しながら、アユミの身体はすでに反撃に備えている。
来た。
トーマは旋回して身を引きながら、その勢いを利用して横薙ぎを放ってきた。トーマの得意技のひとつだ。だから予想できた。刀を斜めに立てて受ける。
今度は衝撃に耐えることができた。
鍔迫り合い。
トーマの目が近くに見える。もう、洞窟の暗黒ではない。澄んだ光が宿っている。アユミとやり合える喜びのせいか。それが嬉しい。
押し負けない。アユミは手を締め、床を踏む踵に力を篭める。
ふっ、とトーマが圧力を抜いた。アユミの呼吸と呼吸のすき間を絶妙に狙った〈外し〉だった。
「きゃっ――」
上体が前方に流れたアユミに、
「おおおっ」
雄叫びと共に、散弾銃のような乱れ突きが繰り出された。
躱し切れない。肩に、腕に、灼けるような痛みが走る。
突きは止まらない。
それでも、致命傷は受けなかった。
トーマだって、疲労を感じない〈旧科学〉の自動人形ではない。無尽蔵な連打の中に、ほんのわずかに流した〈休憩〉の突きが、巧妙に隠されている。それをアユミは察知できた。同じ明鏡流だから。トーマの技だから。
――これだ!
小さく刀を振って、抜いた突きを弾き飛ばす。
*
「素晴らしい応酬ではあるが――」
見守っていたムメイがつぶやく。
「どうも情念が足りないね。まるで競技じゃないか」
「別にさぁ、お前を愉しませるためにアユもトーマも生きてないから。つまんないなら帰れば」
ユキトが吐き捨てる。基本的に、誰とでも無神経なほど明るく接する少年だが、どうもムメイとは肌が合わないらしい。
「ふふふ、そう邪険に扱わないでくれたまえ。ユキトは、私がアユミに興味を示すのが面白くないかね」
「うん。お前はなんか、やらしい」
壁にもたれて腕を組んだまま、ユキトがふいに殺気を放出した。
常人なら浴びただけで硬直しそうなそれを、ムメイは人を食った微笑みを唇に溜めたまま、やり過ごした。跳ね返したのではない。肉体を失って透明になったように、素通りさせたのだ。
ユキトは目を細めた。
「変なやつ」
「お互い様だね」
これは、ムメイの発言が正解と言えた。
そんなやりとりの間も、剣舞のようなアユミとトーマの攻防は続いている。
*
――正しい技を正しく遣う。そうすれば腕力や体格は関係ない。剣士に本当に必要なものは、それができる正しい心だけなのかもしれないな
四年前、迷えるアユミにそう言って聞かせたときから、すでにトーマは理想と現実のはざまでもがいていたのかもしれない。
トーマを孤独にさせていたという意味では、心構えが物足りない剣道部の面々だけでなく、自分にも罪があるのだ。
もっと、トーマくんの話も聴いてあげられたらよかった。
わたしがもっと強ければ――いや、正しければ。
そう悔いても、時間は巻き戻せない。そうできなかった事実は変えられない。
わたしたちは、ここまで来てしまった。
いま、この瞬間にできることは――
「トーマくん、あなたのおかげで強くなれたよ」
つたなくても。
「美しい理念の明鏡流が大好きになったよ」
まとまらなくても。
「あなたはちゃんと、わたしを育ててくれたんだ」
思いのたけを残らず。
「あなたの支えになれずじまいで、ごめんなさい」
もう還らないことばかりだけど。
「せめて、これだけは伝えさせて」
新しい後悔は重ねないように。
「トーマくんがくれたわたしを見せることで」
わたしがすべきことは。
「トーマくんの『正しい心』は絶対に無駄じゃなかったんだって」
自分を護るのでなく。
「わたしが、証明するから」
――トーマの心を、護ることだ。
アユミは刀を右の斜め後ろに垂らした。切っ先が身体の陰に隠れる構えだ。
文字通りの「真剣勝負」の緊張に、全身が汗で濡れている。だが、呼吸は落ちついていた。
トーマは無言だった。アユミの言ったことを、自分の中でゆっくりと巡らせているような気配があった。
やがて黙ったまま、トーマも刀を高く掲げた。
堂々たる上段の構えから放たれる気は、波濤のような圧力だった。
アユミは臆せず、トーマの気を正面から受けとめた。
トーマが自分に応えてくれることが――トーマをここまで本気にさせられる自分のことが、アユミは誇らしかった。トーマも同じ気持ちなのだと、素直に信じられる。やっと、心が繋がった。せっかくひとつになれたのに、この時間がもうすぐ終わるのが寂しい。もうすぐ、終わるのだ。
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