「やめて――そんな冗談、悪いけど何も面白くないよ、トーマくん」
アユミは声をうわずらせた。
嘘だ。トーマがコウキを斬ったなんて、嘘だ。
だって、そうじゃなかったら――事件が起こった夜、ジンを伴って衛士団に現われたあのときから、トーマはアユミに芝居をし続けていたことになる。
この格技場で、明鏡流の思い出話に花が咲いたのは、何日前だったか。
試し斬りも見せ合った。トーマが〈仮想球〉の敵を両断したあの剣は、すでに血に汚れた剣だったというのか。
「コウキは、俺にとって頼もしい男だったよ」
トーマは冷然と語り始めた。「腕も立ち、俺の至らない部分をよく補ってくれた。先生をくだらない理由で責め立てる男だとは、信じたくなかった」
*
「僕はもう、どうしたらいいかわかりません」
ジンはそう言って、トーマの前で泣いたのだ。
「いつか何かを変えられると思って、学院に来ました。しかし壁は厚い。厚すぎた。いまは堕ちていった棄民たちの気持ちがわかります。少なくとも、このやりきれなさからは逃れられる」
大人の男が本気で弱音を吐き出す相手に選ぶほど、当麻=ザウエルという人間の器が大きいということだが、そのトーマもいまだ一介の少年には違いない。
顧問の教師から突きつけられる問いかけは、あまりにも重いものだった。
「情けないけど、自分では決められません。きみが去れと言うなら、僕は学院を去りましょう。こんな選択を生徒に預けるなんて、卑怯者と思ってくれてかまわない。ただ、トーマくんが部を守りたいと言うなら、不思議ときみに憎しみは沸かないんだよ」
「なぜですか」
「なぜでしょうね」
眼鏡の奥の充血した目が、剣道部部長を映した。
「きみの中にも、ぼくと似た闇があるのを感じるからでしょうか」
その言葉が、トーマの中で火花を散らせた。
爆発させることは生涯あり得ないと思いつつ、確かに胸のいちばん奥で眠っていたものに、静かに火が点いていくのをトーマは感じた。
「――先生が棄民であることを知っているのは、コウキだけですね」
「理事長を除けば、そのはずだ」
マダム=チヨコならば、教師の出自になど拘らないだろう。だが、学院の人間のすべてがマダムと同じ見識を持ち合わせているわけではない。
「コウキを斬りましょう」
明日は晴れるから洗濯をしましょう――その程度の提案のように、さらりと発せられる自分の台詞を、トーマは他人事のように聞いた。
ジンが不意を突かれたように目を見開いた。
「正気か、きみは」
「自分では正気のつもりですが、傍から見ればおかしいかもしれません」
*
「後悔はしていない。自分の欲望に、忠実に従った」
「欲望……?」
アユミは震える声で訊いた。
「俺は爺さんのように、よき指導者を貫くことはできなかった」
トーマは微笑んだ。
幼なじみのこんな虚ろな微笑みを、アユミは初めて見た。
「剣道部を育てるのは苦行だったよ」
アユミが聞きたくない言葉を、トーマはどんどん重ねていく。「指導はもどかしくて仕方がなかった。俺やアユミが当たり前のようにできることが、いくら教えてもできない部員ばかりだ」
「それは、だって――最初から上手な人間なんていないよ。トーマくんだってわかってるでしょう」
「もちろん、明鏡流の高弟たちとは違う。そこまでのレベルは望まない。上達が遅かったり、才能に限りがあるのは構わないが――剣道を単なる立身出世の手段としか見ていない部員は多かった。それは許せなかった。いや――」
トーマは目を伏せた。
「許せないのは、部員を十分に導けなかった自分か」
ゲオルギウス学院で運動部を勤め上げた経歴は、文武両道の印象を与え、社会的な好感度が高い。進学や、その後の就職で有利になる。トーマやコウキが公式試合で残す剣道部の成果にぶら下がって「箔」をつけたいだけの部員は、決して少なくなかったということか。
「俺の徒労感は、先生の徒労感に似ていたのだと思う。立場や重みは違えど、学院に――自分自身に失望しているところで、共感があった」
アユミの視界がぐにゃりと歪んだ。床が失われて奈落に落ちていく思いだった。
そんな鬱屈をトーマが抱えていたとは、想像もしなかった。数ヶ月に一度、帰省して稽古をつけてくれる兄弟子から、いま告白されたような鬱屈は伺えなかった。
「それで、ジン先生を助けるために、コウキさんを斬ったというの」
喉が異常に乾くのを感じながら、アユミは問う。
「それは、口実に過ぎない」
トーマはかぶりを振った。
「振り返れば、きっかけが欲しかっただけだと思う。枠の外へ出て行く名目が。斬りたかったんだよ。ただ、明鏡流の剣を存分に振るって、強い相手を斬ってみたかった。それにコウキは最適だったということだ」
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